プロレーサーは諦めなさい。
※この話は、あなたの叶えたい夢を真っ向から否定する話ではなく、「夢の多様化」を伝えてすこしでも、あなたの可能性を広げるお話であることをまずご理解頂きたい。
プロレーサーは諦めなさい。
自分が小学校5年生の頃、夜寝る前に母から呼び出され、畳が8畳敷かれたリビングの部屋で言われた一言である。
シンプルに疑問に思った。
「なんで?」と私は返す。
「あんたの夢はね、実はとてもお金がかかるものなの。とてもじゃないけれど、今のお父さんとお母さんの力だけじゃあんたの夢を叶えられそうにないの。ホントに御免だけど、諦めて。」
大好きだった母から初めて重そうな気持ちで否定された言葉。
すごく悔しくて悲しくなった感情は今でも覚えている。
プロレーサーになりたいと思ったのは小学4年生の頃。
それまではサッカー選手だったり学校の先生だったけれど、プロレーサーほどカッコ良くて、人を感動させて、大好きなクルマに乗って生きている人を見たことがなかった。
気がつけば、布団に入って頭の中で富士スピードウェイを思いっきり走ってマニュアル操作しながら眠りにつくのが習慣になってた。
それほど本気で叶えたかった夢だった。
たとえサッカー選手でも学校の先生でも遅かれ早かれ現実と向き合わせるつもりではあったのだろう。
そして、プロレーサーになりたいという本気の気持ちが知らずに伝わってたのかもしれない。
だから諦めてほしいとお願いを言ってきてくれたのかもしれない。
感謝すべきだったのか、もっと熱意を伝えて押し通すべきだったのかは今でも分からない。
その日その瞬間、私はプロレーサーになることを諦めたのである。
夢を諦めてはや10年経とうとしているが、こんにちまで自分はプロレーサーになりたいと思ったことがない。
本当に諦めた?
叶えれなかった夢を僻んでいる????
いや、そうじゃない。
諦めたのは間違いない。
ただ、それで終わらなかっただけである。
自分じゃどうにもならないことはスッパリ試合終了させる。
毎年必ずと言っていいほど聞かれた将来の夢。
航空パイロット、プロレーサー、サッカー選手、スポーツアスリート、警察官、消防官、自衛官、YouTuber。
小学生の夢はどれも花形であり、夢そのものである。
しかし、これを大人になって叶えている人は何人いるだろうか。
間違いなく言えるのは、小学校の頃にいたクラスメートが、花形のような将来の夢を叶えて活躍している姿を未だに見たこともないし、聞いたこともないということ。
もしかすると、そのほとんどが諦めたのかもしれない。
ただ、諦めたくて諦める人はいないと思う。
大半は家庭の事情。自分自身の可能性。環境。それらを占めている。
そして、それを理由に夢を諦めた人を指さし、袋叩にする人も存在する。
では、あなたはどう思う?
カッコ悪い?情けない?根性無し?
そう思ったあなたは、悪いがまだまだ視野が狭い。
後ろ指を指して笑うようなそういう人は、そもそも夢を持つこと自体を諦めた人であるということは覚えておいてほしい。
「夢」とは一体??
まず、夢とはプロレーサー、YouTuberのようなメディアに載って人を魅了することだけが夢ではなく、それになって「どんな人になってどのようなことをしたいのか」が夢であるということを覚えておこう。
例えば、「カメラマンになってうつすものをたくさんの人に届けたい。」
これも立派な夢であり、
「先輩のような優しくて芯のある強い人間になりたい」
これも立派な夢である。
かつてプロレーサーが夢だった私は、「もっとお金を稼いで、スーパーカーに乗って好きなキャラを貼り、痛車にしたい」というクルマの夢も持っている。
さらにいえば、「18の頃から好きだった100系のマークIIに乗って好きな1Jサウンドに包まれながら好きなキャラを貼って痛車にしたい」
という夢も持っている。
今やかつてなりたかったプロレーサーとは比べ物にならないほど多くの夢をもっており、本気で叶えたく、それを叶えるための材料探しに熱中している。
夢の形はシンプルなものだけじゃない。
私のように複雑で細かい夢なってもぜんぜん大丈夫。
大きくても、小さくてもそれは関係ない。
数だって関係ない。いくつあっても問題は無い。
人は色んな人と出会い、色んな知識と経験を得て価値観を広げていく。
同時に夢も多様化していき、「人を喜ばせることをする時点でそれは夢である」ということも分かってくる。
だから小さい頃になりたかった夢を叶えられなかったとしても、絶望しないでほしい。
夢の形は無限大である。