#病みアカさんと繋がりたいのもつ意味
なぜ病んでいる者たちは繋がろうとするのか?
病んでいなくても人は繋がろうとするが、その二者の繋がりにはどういう違いがあるのか?
繋がることが可能に思われた矢先、急な拒絶が生じるのはなぜか?
さまざまな意見があるだろうが、それら一つ一つ真剣に向き合いながらわかり合っていくには膨大な時間と言葉が必要になってくる。
“ どんな人でも精神の拠り所が必要で、大量のハッシュタグと共に依存相手を求めるツイートの重さと来たら、メンヘラ的に惹かれる部分がある。こんな腐り切った自分でも承認されているような気分になれてしまう。これはきっと電子ドラッグだ。共通の趣味だったりゲーム相手を探す内容のツイートより、人間を求めているツイートの方が何倍も人間味がある上にメンヘラで良い。”
そう、私たちは「人間」を欲しているのだ。
繋がりは孤立を防ぐ
わたし自身の経験から言いたいのは「人は圧倒的な孤立を感じると自殺する」ということだ。
世界から必要とされず存在していることに意味や意義を見出せない、それがこの先もずっと続く。その絶望が全身へと染み込んでいく。背中から押しよせる死にたい気持ちに押し出されるようにして奈落へと落ちていく。
希死念慮は無くならない。
その時、手をつかんでくれる者がいるかどうかだ。
さらには病んでいる者たちの求めている「繋がり」とそれを取り巻くき支えている側の求めている「繋がり」が違うことでもすれ違いや不幸が起きる。
「そんなことをしてほしいんじゃないのに」「そんなことわかってるのに」というかけ違いが、差しのべられた手を拒絶してしまう。
これら一つ一つを自分で気づいて対処していくのってすごく大変というか、まあ不可能なんですよ。そこまでの元気だってない。
だからカロリー使わずにわかり合える、同じ経験や気持ちを持ったもの同士でまずは繋がってみよう、とりあえず生き延びようという策をとる。じゃないとマジで死んじゃうから。
繋がろうとする気持ちは大事な生存戦略だけど、それにかかる労力やら不安やらもまたやっかいなわけで、まずは死なないよう慎重にかつスマートに触れあわなければならないのだ。
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