メンヘラ会に行ってきた話
すごかった。とにかくすごかった。
ふだん様々なイベントが行われているカフェで「メンヘラ会」が開かれたので行ってまいりました。
ほとんどの方がフェイスブックからの参加で、イベントやセミナーをやられているような方たちが多いみたいでした。
始まってみれば満員御礼の、小さなカフェいっぱいに集まった人たちの熱気がすごい。お菓子やお酒が振る舞われて終始あちこちで元気な声が立ち上って、ふだん私が接している会やボランティア時に時たま感じる孤立の苦しみや衝動的な死への熱量とは違うものを感じました。
熱っぽさがあるのは一緒ですね。
「自分がメンヘラだとは思っていない」「メンヘラってあれでしょ、キチガイでしょ」「メンヘラはかわいいから好き!」みたいな…なんか字面にするとひどいこと言ってるように見えるんですけど(笑)、その場にいて全然不快な気持ちにならなかったんですよね。
なぜならみんなが、相手の言葉をきちんと聞いているから。
中にはもちろん紛う方なきメンヘラエピソードを披露される方もいらっしゃいましたが、そういった強めな発言をされた方達のお話もちゃんと聞いてるんですよね。バカにしたりとか偏見に満ちた気持ちで聞いていいない。それは他者に対する関心を抱いていたり、相手の気持ちを色々な疑念がありながらも興味を持って聞こうとしているから。自分の抱いていた意見や考えをちゃんとアップデートしようという意欲があるから。だから相手を卑下しない。すごいことです。感動しちゃいました。
さらに会ではちゃんと「メンヘラタイプ型研究」とか個別で「メンヘラの定義は?」っていう話で盛り上がりました。定義が気になるってことはそれだけ自分の中にある定義が揺らいできたってことで、これもまた面白い兆候ですよね。
なんかもう最近ツイッターで言い合いやグチ、自己卑下ばかり流れてくるからフェイスブッカー(?)たちの聞く力というか人間力のすごさに圧倒されっぱなしでした。
もちろんツイッター上はあれ特有のあれなので、あれはあれで必要なんですけど。じっさい今回最後のメンヘラ投票で優勝されたのが、溜めた思いはツイッターでぶちまけますと言ったすごく真っ当なメンヘラさんだったので、ツイッターさすがやで!負けてない!って思いましたけど(笑)。
そして最後の感想を一言ずつ語るときには「すごく話しやすかった」とおっしゃってた方が多くいてそれもうれしかった。そのままわたしも「うれしい」って言っちゃったし。
そういった話しやすい雰囲気のある場の力、そしてそれは積極的に自分のつらさ、メンヘラエピソードを語り合ったからなんですよね。自己開示することの効力、そしてもちろんそれを可能にした場の力の融合。
私が自分の会をやる目的も「生きづらさをみんなで話し合える社会・環境づくり(それが個人の生きづらさの軽減につながるため)」なので、まさにその萌芽であり完成形を見せられてしまったな、と。なんかそんな感動に打ちのめされた会でした。
もちろんこの短時間で簡単に生きづらさが全部解消されるわけではありませんが、話しづらいことを語ることで生じる変化、みたいなのは皆さん感じられたと思います。今まで抱いていたメンヘラのイメージが変わった、そう感じていただけるだけでも素晴らしいことだと思いました。
と、いうのがその会で私が素直に抱いた感想です。
この後は「生きづらさ研究会」主催者としての私の感想を書きますね。
フェイスブック、使い方がまだ慣れずにいる。
【誰のための何のための生きづらさ研究会なのか】
わたしがこの「生きづらさ研究会」をやる目的は前にブログでも何度か書きましたが、生きづらさを持った人が生きやすい状態になることです。そのために当事者と非当事者の交流が不可欠であり、当事者同士「だけ」で集まって語るだけでは変わらない変化を社会にもたらしていきたいからです。
もちろん当事者同士で集まって得られるものもたくさんありますので、それを否定しているわけではありません。でもそれらとはまた違ったくくりの大きな安心は周りの人や環境の変化、受け入れが必要でありそのための外の多数派、いわゆる「ふつう」と言われる人たちとのやり取りが必要なんです。
なんかこの当初の目的が最近自分の中で曖昧にしてたな〜、って。
わたしが考えているこの生きづらさ研究会の目標は「365日毎日開催」です。そのために必要なことってたくさんあるんでまた後日書きます。そしてその理由というのが「唐突にやってくる生きづらさ、死にたい気持ちにすぐ対応できるような存在になりたいから」です。あなたが必要としたときにちゃんとそこにある存在にしたい。
生きづらさ、という言葉があまりに広い範囲をカバーしているので、そこが強みでもありとらえどころのなさで、苦しんでいるところでもあります。
個人的には継続性を上げていきたい、縦への継承の仕組み、専門家との関わり方…これは今まさに当事者研究会界隈で熱く語られ出したところですのでそこも楽しみですね。
と同時に最初に言った「横のつながり」ですね。いや、外へのつながりと言った方が良いでしょうか。
わたしが、わたしの会が内と外ののつががりになってくれればと思っていたのですが昨日の会に参加して、内から呼びかけていたことに満足してて外に届かそうとしていなかったことに気づいたんですよね。
自分から赴くことを怠っていた。外に出て「さあ、こっちです。案内いたします」ということをしないといけないのに「わたしたちここで声を上げているから気づいてねー」というラクをしていた。
これじゃあ交流なんて起きっこない。さらには声を向けているのは外、という思いはあるので内の人にすら届いていない。
じゃあ何をしていたかというと「参加者の気持ちを聞いていた」んです。わたしは最初この会を「傾聴ボランティア」+「当事者研究会」というイメージで始めました。両方の場所で感じた不満を解消したかったんです。それを参加者の気持ちを聞く、つなげる、研究するというすごく狭い範囲での動きしかとらえられていなかった。どちらも「外に向く力」があるのに。
個々に向き合うこと、内でのつながりを作ること。それだってすごく大事だし、やりたかったことの片側です。もう片方、外に伝えることと外とのつながりを作ること、この二つが両輪として必要なこと、やりたいことなんです。それが内と外両方の生きづらさをもった人たちの助けになるんじゃないかと。
でもこの両方を同時に開催するのは難しいです。不可能なんじゃないかな。昨日の会だってそうです。人が多すぎて小さなグループになってそれぞれが自由に話していた。共有・継承が行われなかった。そこまでの議論にならなかったしそこまでを目的として設定されてなかった(主催者側の気持ちはきっとあったと思いますが)。大人数の会では往々にしてあることですが、これが起きるとわたしメッチャ不満なんです。とにかく聞きたがりだから聞けないことにものすごく腹たつ。超不完全燃焼なんです。まあ聞きたがっているのは「自分」なんで、こういった感覚は傾聴においてはぶっちゃけ「間違い」ですけど。
というわけで、回数が必要なんです。そのための「365日」でもあります。継続性と深度を極めていく会もあれば、広く知らしめる会も必要。テーマをピンポイントで作って「まさにこういった会を探していた!」という人に届けることも必要。テーマを自由にして、そういった面での「横のつながり」を作るのもアリ。
もう、ね、何でもありなんですよ。
そもそもこの「生きづらさ」っていうものが何度も言いますが何でも飲み込んじまうんです。無限の胃袋です。ブラックホールです。あー、なんかこの例え良い。マジ深淵。当事者は飲み込まれた人、非当事者は飲み込まれる前の人。違いは「時間と空間」でしかない。「程度」の問題でもあるんですよね。飲み込まれた後の生き方、というのがあるし、備えておくこともできる。備えをするということは意識するこということであり、それはもう当事者なんです。
うおー。話が長くなってきた。
思ったことを一気に吐き出そうとしてるので取り止めがないです(笑)
とうわけで8月はメンヘラ月間でした。いい締めくくりができたと思います。思いはとめどないけど、とりあえず。来月は「男の生きづらさ」月間です。生きづらさ研究会と、初の読書会やります。読書会はたぶんリラックスした感じでやると思います。
今日のところはこの辺で!
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