自分の感情を言えるようになるためにnoteを使おうと思った話
一昨日は私が主催する生きづらさ研究会でした。そこでは参加者が各自の生きづらさを自由に語るのですが、今回私自身もけっこうしゃべって、自分自身の生きづらさに気付くことが多かったです。
そこでの学びを生かして、今まではこちらのnoteを主催者としての語りをしてきたのですがこれからは私自身が思ったこと、感じたことを素直に語る場…いわば裏アカですね、そういうところにしていきたいと思います。
そうは言っても今の私は傾聴ボランティアと、この会の主催をすることが人生の一番の楽しみなのでどうしたって他者の生きづらさに関わることを話したくなっちゃうのですが、できるだけ自分の感じたことを語っていけたらなと思います。
毎度、会の参加者やボランティアで話す人から「そんなに他人のことばっかり考えてシンドくないですか」「なんでそんなことできるんですか、やっぱり自己満足とか優越感とか承認欲求があるんですか」って本当に良く言われるんですが。
ハッキリ言いますが、そいうった自分のために他者の生きづらさ、最終的には命の責任、そんなものを負うほどの報酬なんて物質的にも精神的にもない、ということは知ってほしいです。自分の言動が他者の救いになるなんて考えると「相手を支配しよう」という欲求につながります。
見返りがないからこそ、対等になれるんです。傾聴の基本は「友達のように聞く」であり、金銭などの受け渡しが発生して友達のように聞くなんてことはできません。
とまあ、話が逸れましたが「自分のことを出す場がないと壊れちゃうよ」っていう助言と発することが自然とできるようになる訓練のためにこちらで書いていこうと思います。
訓練しないと、話せないんで。
ツイッターで「お腹すいた〜」とかつぶやいたり、インスタでキレイなものの写真をあげるってことも出来ないんです。今までなぜかがわからなかったけど、今回の会で話すことでわかった。
自分の言葉に自信がない。
だれもそんなものに価値を見出さないし、自分でもそう思っています。学校の美術の成績は学年でビリから二番目だったし、自分が美的センスがなく不器用だってのは知っている。でも他の人の作品を見るのは好き。だから自分では、好きな「文章を書く」ということで昇華している。お腹が空いた気持ちも、キレイなものも、ぜんぶ言葉にして伝えたい。詩人として生きたかった。雑誌に載った時点で周りは誰もそんなの読んでないし読まれないものなんて意味がないと思ってやめた。文体が好きだ。小説も内容で選ばず文体でファンになる。ブログなども文体で好きになる。文体を見ればその人がどんな人となりでどういった人なのか概ねわかる。書いてある内容は文体に沿った解釈がされ、それが出来事として表記される。
だから私は、自分の言葉を伝えるのに時間がかかる。そう思った。
死んだ親父から言われた「お前が何を考えているかわからない」という呪いは私を支配していて、今も人に「謎ですね」って言われて戸惑いとおかしみがある。
自信がない、価値がない、ある程度時間をおいて何かしらにまとめあげないと発表できないと思っている。原型のままだと価値がない。だから他人の言葉にすぐに反応できない。
ボランティア研修でも「聞いてはいるけど反応がうすい。これじゃあ相手は聞いてもらっているのかわからない、不安になる」と言われた。自分ではいろいろと思いを巡らせているのだが言葉がすぐに出てこない。だから感情をすぐ表現できる人に憧れる。羨ましいな、と思う。自分がないものを持っている人には惹かれるものだ。これは男性全般にも言えると思うのだが、表に出すのがヘタクソなんだと思う。練習すればある程度はできるようになると思う。だから、このnoteもそのために使っていこうと思った。