男なのにフェミニストのクレーム対象にならないと思っている男が引き受けられる男に変わるための「知る」を始める。

昨日の記事で「フェミニズムの勉強するぞー」と息巻いていたのですが序章というか助走として先に男性学を少しだけかじっておこうと思います。
というのも、そもそもわたしがフェミニズムに興味を持ったのも「女性たちの生きづらさが頻出している」→「そういった声をあげてる人たちのことをフェミニストというらしい」→「フェミニストたちは男が嫌いで、男たちの傍若無人さをとにかく嘆き糾弾している」という認識をしていました。今の時点でけっこう誤った認識だとわかるのですが、とにかくそんな中わたしとしてはその男側としての当事者意識が全然持ててないことに危機感と寂しさを感じたんですよね。

「痴漢をしてないからこれはわたしのことではない」

「女は〇〇して当然だ、なんて思ってないからわたしはセーフ」

「女性蔑視の発言なんてしてないからわたしは悪くない」

わたしは男なのに、女性が苦しんでいる男社会(家父長制)の担い手のはずなのに、どうして当事者性を持てないんだろう?

男が女性の生きづらさを聞けなかかったら、いったい誰がそれを聞き、変えていくんだ?

ただ男であるだけではフェミニストのクレーム対象者になれない。男を受け入れる自己がないから。
そしてそんなわたしでも、知らず知らず男としての押し付けを女性にやってきているし十分対象者なんですが、まずはその「男」を取り戻すことで合致した自己を形成し、「クレーム対象者としての男」を引き受けられるようになっていきたいなと。他者を知る・己を知るためにもまず男である己を知ってからいこうかな、と(今の男性学はフェミニズムを通しての男の再発見なので家父長制に浸かるわけではないです)。

というわけで男性学の絶好の入門書らしい伊藤公雄の『男性学入門』を購入したのでしばらくはこの本を読み進めていきたいと思います。

…その中で早速“表面的には一見「軟弱」に見える男子学生も、その心の深い部分では、けっこう親の世代と同様、古いタイプの〈男らしさ〉へのこだわりをもっている”
って書かれていて、あーこれ完全にわたしだわ…ってなって暗澹たる気分になってます。

自分を知るのは、苦しさもある。


#フェミニズム

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