欲望と行為と関係。加害者/被害者を安心してやり切れる社会に

【娘と電車に乗っていたら全く知らない老人に突然インスタントカメラで写真を撮られた…『勝手に撮るの止めてください』→全く話が通じなかった出来事 - Togetter】

このお母さん、電車内で娘さんが見ず知らずの人に写真を撮られた上、驚きや不快感を伝えても“「大丈夫大丈夫、私は怪しい人じゃないから」と謎の返答”を受けてその言葉の伝わらなさもあり軽くパニックになったと述べていました。

この出来事にわたしは「加害者と被害者の関係性」ができあがっていると感じ、それについて書かれた本を思い出しました。

女ぎらい-朝日文庫-上野千鶴子

「児童虐待のミソジニー」という章の中で作者はこう書いています(べつにおじいさんの行為そのものが性的なものだと決めつけたいわけじゃないからね)。

“性欲と性行為と性関係とは、厳密に区別されなければならない”

“想像力は取り締まれないーそれが多数派のフェミニストが暴力的なポルノの法的な取り締まりを求めることに、私が同調できない理由である”

“加害者がせめて自分が相手を傷つけていることを自覚していてほしいと被害者はのぞむ。だが、加害者は被害者の受けた打撃をつねに過小評価しようとする。あまつさえ、被害者がそれを「歓迎」していると故意にカンチガイしょうとする。それは逆説的にかれらが「罪の意識」を持っていることを、証し立ててもいる”

このおじいさんは、ただほんとうに「写真を撮りたい」だけでなんの悪意もなかったかもしれません。例えそうでなかったとして、だれも彼のその「欲望」を取り締まることはできないんですよね。
ただし、やってしまった「行為」は実際に加害性を生じさせこうして被害者を出している。

こうしてふいに自分が加害者/被害者という関係性に巻き込まれてたに、どう対処したらいいのでしょうか。

まず被害者は、本人の望むまで被害者をやりきるということ。ツイッターで吐き出すなどもありでしょう。
ただし周りが共感以外のことで力を貸そうとすると大抵ロクなことにならないです。自分たちのマイノリティ性の正当化のために本人の気持ちを無視して被害者性を担ぎ出したり、お前も加害しろ的なアドバイスは、本人のことを第一に考えたらなんのためにもなりません。
そして当事者であるおじいさんは自分の中にある加害性に向き合う必要があるということ。
「欲望」を抱くのも自由だしそこは誰にも取り締まれないが、自分の「行為」が他者にどういう影響がでるのか「関係」を考える必要がある。
そういう被害性を感じた者が生きやすい社会、そして加害性を帯びたものが罰を受けるだけでなくきちんと「自省」「回復」できる社会が求められているのではないかと思います。

おじいさんの言う「大丈夫大丈夫」には「わたしは加害者なんかじゃない」という自分に向けた自己を守るための言葉でもあったかもしれません。無自覚であれ何であれ、おじいさんには「見ず知らずの人にカメラを向けたら傷つく人がいる」ということを知る必要があるのです。簡単に加害者になれれば、すぐにその後の自省と回復を促せる。
被害者がかわいそう、加害者が悪い、で話が進んでいくのではなく安心して自分の立場(加害者/被害者)を引き受けられる環境を整えるのがまず周りの人たちがやるべきことではないでしょうか。
その言葉の持つ強さに腰が引けてしまい大半の人が間のグレーゾーンに止まってしまっている。どちら側になるにせよ当事者性を避けたいから、いつまでたっても「セクハラした覚えはない、向こうから誘ったんだ」「虐待ではなく、しつけ」という言葉が出てくる。
差別や犯罪も同じように自分の中にある欲望が行為や関係になった場合、それが加害者/被害者を生むということ、そうなった時に過不足なくやり切れるサポートがある世の中が必要ではないでしょうか。


#フェミニズム

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