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死んだ日

昨日、私が死んだ。美しい死に際だった。



先日、父親が弟を叱った。
父親は物凄い形相と罵声で、弟はパニック状態に陥り嗚咽が止まらず、キーキーと悲鳴に近いような高い声を上げながら弁明していた。

そこまでは、まだ許容範囲だったのだ。
何故なら父親はどれほど怒り方が凄惨と雖も、正論を吐いていたからだ。
叱られるとパニック状態と軽い吃音になってしまう弟の悪癖も、決して良いことではないのだけれど、家族の中では「見慣れた家庭風景」になってしまっていたのもある。



しかし、或るやりとりにおいて、言葉に疎い弟は返答を間違ってしまった。
父親からの質問に、反省とはまったく逆の返しをしてしまった。

父親の質問の意味が、少し回りくどかったのだ。
弟は意味を拾いきれず、誤魔化すような形でなんとか言葉を紡ごうとしたのだろう。
虚しくも、逆効果になるとはいざ知らず。

その瞬間、父親は冷静になったのち、一旦呑み込んだ。その返答をただストン、と、心の内にしまった。

私は別のことをして気を紛らわせていたのだが、その会話とも言い難い会話にも集中し注意を払っていたので、その瞬間を、その沈黙の後を、今でもよく覚えている。
「わかった」
今までの剣幕が信じられないほど、凍てついた声だった。

三秒の間
弟の胸ぐら目掛けて、父親の手が伸びた。
「舐めとるやろ、お前」

その後の数秒程の間に三発くらいは殴っていた気がする。

父親は、叱ったのではなく怒った。
父親は怒ると暴力を振るう人間だ。それは昔からずっと変わらず、母親は幾度となく手をあげられていた。髪の毛を握って階段から引き摺り下ろされたり、みぞおちを殴られたり蹴られたり。

通常のDVと大きく異なるのは、その状態になる沸点が理解不能である点、そして暴力が行われたあと決して優しく謝ったりなどはしないという点だ。

そして、父親は決して「絶対悪の人間」ではない。
寧ろ、普段は社交的で考えもしっかりしており、仕事熱心で、亭主関白と男尊女卑の考えが強いけれど、子供を愛する良い父親である。
金だけは出す、というのが父親の口癖だ。
行動で示す背中は大きかった。

だからこそ、いつ、「そうなる」のか分からないのだ。私は、物心ついてから家族といた十何年において、本当に何も考えず安心していたことはない。

しかし基本的には、子供に手をあげることは滅多にない。その対象が弟であったことは、弟が生まれてからの12年間において、3回しかなかった。

母親に関しては、数えたところで希死念慮が積もるだけなので途中でやめた。

​…………私に手をあげたことは、一度も、ない。



閑話休題
父親が弟を間髪入れずに三発殴った途端、母親がすっと通った声で「それだけはあかん」と言い放った。
しかし、父親は止まらない

三度、母親が父親を呼ぶ。
「なんやねん」
「それだけはあかんやろ。私に教えてくれたやん、怒りすぎたらあかんって」

この日の前日、父親は私と母親の喧嘩の仲裁をしていた。
私と母親はお互いかなり凹んでいて、喧嘩した後に泣いて自責の念に囚われていた。きっかけは生活についての価値観の相違だった。母親は、「つい余計なことを言いすぎてしまって、娘のやる気を引き起こすことができない」と、家庭内唯一の第三者、父親に相談していたのだ。
その後、私に母親の意見を伝え、私の意見も優しく聞いてくれた。

私はその時、父親に感動したのだ。
こんなに家族に働きかけてくれるなんて、と。
そして私以上に、母親は感動していただろう。

私と母親の人生の中で、初めての感動。
その翌日がこれだ。上がった分、下げられた絶望は大きかった。
「うっさい、なんで止めんねん、おいコラ」
父親は母親に吐き捨てる。胸ぐらを掴まれっぱなしの弟は再び泣き喚く。
母親は声を震わせ、続ける。
「手だけは出したらあかんかなって。昨日怒りすぎたらあかんって教えてくれてたから」
「黙れ。それとこれじゃ別やねん、止めんな鬱陶しい。文句あるんやったらお前も出ていけや」

その時の母親の顔は、勇気と意地と決意で満ちていた。
恐怖に打ち勝とうと、涙を堪えて父親をじっと見た。


……じゃあ、一方私は?
傍観者である。今まで生きてきた中で、ずっと見ていただけだ。
一度も当事者であったことがない。
いつ急に当事者になるかわからない環境で、だ。
何故なら「愛娘」の安全圏があるから。
父親は、私を殴らないのでなく、殴れないのだ。

そして、生まれてからずっと第三者であるにも関わらず、何かを変えれたことなんて一度もない。
……弟は一度、母親に怒りテーブルをひっくり返しワイングラスを投げた父親を止めに入ったことがある。その後に殴られていたが。

一番手を出される可能性が低い人間が、一番何も行動を起こさないのだ。
自分でも情けなくて笑ってしまう。
物心ついてから、ずっとそれがコンプレックスだった。

何も変えられない自分
何も変えようとしない自分
「愛娘」の安全圏にいる自分

少しでも変わろうと、人について勉強しようと思った。人を多角的に見ようと思った。
空気を読む能力に磨きをかけた。
父親の顔色を伺い、家族を観察して、今どういう心象かを常に推測するようにした。
トラブルを前もって予防することに全神経をかけた。

そういう風に生きてきた。これは罪悪感を償うための贖罪だ。
第三者として求められれば、母親や弟に、どうしてこうなったかを的確に伝える努力をしてた。
愚痴も浴びるように聞いてきた。
それを聞いて、本当は悲しくなっていたとしても。



しかし、そうやって勧善懲悪じゃない現実を受け入れても、「絶対悪」じゃない父親を愛しても、決して「弱者」ではない母親と弟を愛して生きても、
……私が何もできないという事実は不変だ。

現場は、論理では解決できない。
全員を愛せば愛すほど、誰のことも責められない。
誰のことも恨めない。
善悪を付けられるほど人は単純じゃない。

この日、自分の無力感が、ただただ痛ましかった。
自分一人が絶対に助かる場所で、頭だけは無駄に回りながら、ただ指をくわえて見ることしかできないから、今までやってきたこと全部、結局これからどうにもならないような気がして、無駄なような気がして、どうしようもなかった。

この家の中で、自分一人だけが自室という隅で、音楽で耳を塞いで、部屋を暗くして見て見ぬふりしてきた生き様が情けなくて堪らなかった。

今までの全部が、フラッシュバックした。
私の一番幼い記憶は、4歳の頃、母親と共に土下座した記憶だ。

決定的な孤独を、刻まれた気分だった。
このような境遇で生きているから、人が生きてから死ぬまで孤独であり、何かと一つになり完全に分かり合えないなんて勿論分かっている。
私以外に、もっと苦労している人間がいるなんて勿論分かっている。

でも、その事実以上に、自分の居るべき場所で、今までも、これからも、ずっと同等の疎外感と孤独を感じること
そしてそれは全て自分のせいであることが、許せないし、納得できない。
変えようとしても変えられない。

嗚呼、誰かに「本当の一生」を約束されて、よりかかりたい。
ずっと死ぬまでその場所がないなら、約束されないなら、死んでしまいたい。
もう死にたい。







というのが、昨日までの思考だ。
昨日までの私だ。


私は、昨日死んだ。
私という人間が死んだ。


死、とは何も肉体だけのことを指す訳では無い。

「自分」という存在も、「他人」である。
心臓や脳が止まらなくても、大量出血しなくても、「自分」という世界が終われば、死ねる。

今日からの私が、昨日までの私を殺した。
それは防衛機制のはたらきだろうか、それとも別のはたらきか?
なんだっていいけれどね
昨日までの私は、今日からの私に全てを賭けた。



もう全部どうでもいい。
全部、全部、どうにでもなるし、どうにもならない。

これが、今日からの私の思考だ。

今日からの私は、きっと、とてもとても楽観的だ。
愛するのはやめた。慈しむのはやめた。全てを諦めた。

それが一番、諦めないってことだろう。
全部殺してやるって、私が、やってやるって
そういう殺意を伝播する。
今の自分のありったけを、これからの成長全てを、私以外の全部にぶつけてやる。

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