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自分地文


何に惹かれたんでしょうか。
何に怖気付いたのでしょうか。

人間の体の六割は水だとよく言いますが、人間の心の六割、ないしそれ以上はないものねだりだと思います。
ご飯を食べれたのなら、安全な場所に住めたなら、もっと良い待遇を受けれたのなら、美人だと持て囃されたなら。

更に言うと、認められたいのです。誰かのように。君のように。でもそのくせ、自分が自分として認められていないと嫌だと思ってしまう。

こんな意識こそが最大級の贅沢なんだ、と自覚できる理性が残っているのだから余計にタチが悪い。
誰かになることで自分になれると思い込むなんてどうかしている。小学生でさえも、論理が破綻していると見抜くことができましょう。そこで、私のもうひとつの塊に話しかけてみます。すると、「人間はそんなもんだ」と返してきました。その命題が真か偽かは確かめようもないですが、その道に長けた有名な学者もそのようなことを言っていますから、これは事実なんでしょう。なんて憎まれ口を叩く意識だ。


きっと、人間は常に無いものが欲しいんです。例に漏れず私もそうです。


私は、自己同一性を拡散させずに、自己同一性を確立する人……いや、厳密には、「確立させた気になっている人」が苦手です。もちろん、その対象が実際どうであるかは知ったこっちゃありません、私はエスパー使いではないので。私は、「自己同一性の拡散の副産物」が表面に露呈して見て取れないことに、ただならぬ恐怖と不安感を感じるのです。

またその逆に、思考の玉手箱が何重にも重なっていて開ける度に闇もしくは光が飛び出すような人は、私を安心させ、次は何が出るのかという興味の対象にもなりえます。自己同一性の拡散がアイデンティティとも言える、そのような状態の不思議な魅力は、発達課題を失敗し続けた私にも可能性を与えてくれるように感じるのです。

何故、このような訳の分からぬ視点を得てしまったのか。それはお気づきの通り、私が自己同一性の崩壊・拡散をもってアイデンティティを確立し続けたからです。常にその二つが連動して同時に行われました。確立、というと「既に完全になった」ような言い方ですが、そうではありません。また私は直ぐに自分を殺して、息を吹き返す過程で新しいナニかを得続けようとしています。これは癖なので治りません。そうすることでしか防衛機制が働かなかったのでやむを得ず続けていると、いつの間にかこうなっていました。

蜥蜴の尻尾切りを続けているといつの間にかキメラになっていて、蜥蜴として生きるには取り返しがつかなくなった、というふうにイメージすれば想像に容易いと思います。

この件に関して自覚的になったのは高校に入ってからです。二年強、沢山の人を観察し私と何が違うのかを考え続けて、やっと辿り着いたひとつの仮説であります。


加えて私は、かなり前から「普通」がわからない。異端ではないだろう、しかし果たして私は普通か。みんなは何をもって自分を自分として認識するか。自分と認識していたものを全て変えざるを得ない状況になれば、どうするのか。無意味に否定される状況や、大きな我慢を強いられる仕方の無い状況がずっと続いても、「自分」を頑として保てるのか。どうして自分にナイフを突き立てなくても生きていけるのか、わからない。

そのような類の「普通」が分からない私には、「普通」がわかる人間が怖く見えました。前述の通り、その定義は「自己同一性の拡散なしに、自己同一性を確立させた気になれる人」です。

キメラの蜥蜴は、蜥蜴の姿を保ちながら尻尾切りを巧みに行う蜥蜴たちを、羨ましそうに心底不思議そうに、憎悪を心に立ち込めながら見つめます。失敗作は、見様見真似で何度やり直しても失敗作のままでした。



そんな私にとって、ないものねだりの対象は「自己同一性の拡散なしに生きられるよう、最初から自己同一性が確立された人間」でした。

要するに、のらりくらりと立ち回り、危機を回避するのが非常に上手い人に憧れを抱いてしまいました。しかもそれは、ほぼ無自覚的に行われるのだから尚の事、凄い。

ですが、強く惹かれたその「私に無いもの」は、同時に私を不安にさせました。理由は二つ。

一点は、私が先程から述べている「私が怖いと思う人」と、本質は違えども見かけ上では特徴が酷似しているからです。「自己同一性を確立させた気になっている」というのは、未完の状態です。しかし、私が強く憧れる人は、既に早い段階からしっかりと完成されているのです。ですから、ふとした瞬間に、この人は未完で妥協しているのか、それとも本当に元からこうであるのかわからなくなります。もしも前者であるのなら、私は勘違い甚だしく、ずっと偏った私の主観で誤った等号関係を作っていた、と後悔することになるでしょう。

二点目は、そのような「自己同一性を拡散させる必要がそもそもない人」というのは、私のような、自己同一性の拡散と確立が同時に行われる人間の気が知れないだろう、という点です。それはもはや自明で、寧ろ私に理解を示すことが出来ないからこそ惹かれているというのもあります。しかし、私を拒絶する原因にも成りうるというのは、やはり不安になります。



自分に無いものを見た瞬間に、惹かれると同時に、怖気付いてしまうのです。その二律背反は、美しい二重の螺旋を描いて、私に……ないものねだりをする人に、巻きついて、離れてくれない。

一種の飴と鞭でしょう。あなたのようになりたいと、強い憧憬をもって願う権利は飴。それを利用して、前提への懐疑心や自分を拒み否定することへの不安感を鞭とし、調教します。またそれが刺激となって、そんな時に飴を与えられると堪らなく甘美に、美味しく感じるのです。永久機関として成り立つ可能性をも秘める。

憧れという崇高で……人間らしく下品な欲求の前に、私たちはどうしようもなく服従することしかできません。

この飴と鞭に酷く溺れて、全てを快感となしてしまった時を、人は、『恋』と定義したのではないのでしょうか。

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