「ありふれた演劇について」44
まもなく円盤に乗る派『幸福な島の夜』の本番を迎えるので、今回の作品にあたって採用している演技のプロセスを整理しておこうと思う。とはいえ、これはあくまで私が稽古場でこのようなことを話した、ということであって、実際に俳優の中に起こっていることはこの通りではない可能性はあるので、単なるディレクション(方向性)に過ぎないと思ってお読みください。また、今月だけでは書ききれないかと思うので、来月にも続くと思います。
1.演劇のテキスト(戯曲)は「ヤバい」ものであるとの前提に立つ
ピーター・ブルックが、なにもない空間に立つ一人の人間と、その人物を見つめるもう一人の人間がいるだけで演劇は成立すると言ったのは有名な話であるが、自分の感覚では演劇というものは、まず一行のテキストがあり、それを発話することで初めて生成されるのではないかと感じている(※)。そのとき、例えばそれを発している人物の心理が深く追求されてたり、動機がしっかりと検証されていたりする必要はない。書いてあるものを、書いてあるまま読むだけで、演劇は成立する。しかしそれは決して感情や抑揚を消して読むということではない。テキストにはどうしようもなく意味や感情がまつわりついているのだから、あえてそれを発話に込める必要はないが、あえて消してしまう必要もない。いわば、テキストの要請するものに従って、「読まされる」ことをここでは想定している。
優れた戯曲のテキストは、発話をしたとき、発話者に対してどうしようもない影響を及ぼし、変容させてしまう。口にする前と後では、どうしても何かが違ってしまっている。得たこともない感情にとらわれてしまうかもしれないし、すっかり忘れていた何かを思い出してしまうかもしれない。今までの自分とは違う何かになってしまうこと(それは決して、登場人物と一体化するという意味ではない。もっと得体の知れない何かへの変化だ)、それが戯曲を口にしたときに起こることであり、そういう意味で戯曲のテキストというのは非常に「ヤバい」ものである。
重要なのは、その戯曲が本当に優れたもので、本当に「ヤバい」ものなのかどうかではない。演技にあたっては、まずその戯曲が「ヤバい」ものであるという前提に立つこと、そのうえでアプローチすることが重要だ。
「読まされる」のではなく、人物の心理や動機を考慮しながら、それを叶えるべく積極的に「読む」ということをしたとき、この意味での「ヤバみ」は発動しにくくなるだろう。積極的になるほど、主体は強くなり、その分主体は揺らぎにくくなる。あるいは、別種の主体にとらわれてしまう。この「ヤバみ」は常に「自分とは違う何か」を指向するもので、そういう意味で主体を超えていくものであるから、主体は揺らぎやすい状態にあるべきだ。
さらに、そのテキストも、まさに文字として書かれた文章であることが重要である。文章には文章の論理があり、運動があり、イメージがある。テキストのテキストとしての「ヤバみ」は、まさにこの文章空間において現れる。文章空間は現実とは違う領域であり、現実に属している存在である読み手がその文章空間に入っていくことは、やはり「自分とは違う何か」を指向するということであるからだ。
この文章空間を認識するためのワークとして、今回は稽古の序盤にテキストに対して「違和感を探す」という時間を設けた。文章空間と現実との間にずれがあるなら、それは「違和感」というキーワードで発見できるのではないかと考えたからだ。とはいえ、文章空間を意識したり、発見したりするためのワークにはまだ開発の余地があるように思われるので、今後の課題にしたい。
※厳密に言えば音声による発話だけでなく、手話やタイピングのような、別の出力であってもいいかもしれない。要は、その文字列を意識しており、実感を伴ったアクションであり、結果が外部にも認識できるのであればよい。
2. 発話は「キャラクター」や「モード」を伴うが、これらはあくまで非本質的なものである
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