カゲヤマ気象台

劇作家・演出家。円盤に乗る派。

カゲヤマ気象台

劇作家・演出家。円盤に乗る派。

最近の記事

「ありふれた演劇について」54

先日マガジン内で告知した通り、今月いっぱいをもって円盤に乗る場の定期購読マガジンが終了となります。それに伴って、この演劇論も今回が最終回ということになるわけですが、内容はいつもの通り書こうと思っています。 最近、東京芸術祭に出る関係で、いろんな媒体で《円盤に乗る派》という団体について話す機会が増え、改めて《円盤に乗る派》とは何なのか? ということをしばしば考えている。 《円盤に乗る派》は、「複数の作家・表現者が一緒にフラットにいられるための時間、あるべきところにいられるよ

    • 「ありふれた演劇について」53

      現在、円盤に乗る派は東京芸術祭2024で上演する『仮想的な失調』の稽古中だ。『仮想的な失調』は2022年に初演を迎えた作品で、今回も基本的には同じ演出を踏襲するので、段取りや演技のニュアンスを思い出していくことが稽古の中心になる。 芸術祭から上演オファーが来た際、団体での話し合いの中で、初演と同じ上演を目指すのか、それとも新しく創作し直すのかという話題が出た。そのとき私の中では新しく創り直すイメージが湧かなかったし、それでよいもの(芸術祭側からの期待に応えられるようなもの、

      • 「ありふれた演劇について」52

        円盤に乗る派はこの一年、「俳優としての主体がまさに作品の主体になることは可能か」という問いをベースにしながら、いくつかの作品を発表してきた(問いの発端となったカゲヤマの演劇論はこちら)。先日開催された『NEO表現まつりZ』での上演やワークショップによってひとまずの区切りがついたので、振り返りのためのイベントを開催し、メンバーといろいろ話をしたところ、自分の中でいくつかの視点がまとまったのでここに記しておきたいと思う。 今回の一連の企画は、あらかじめ円盤に乗る派のふたりの俳優

        • 「ありふれた演劇について」51

          まもなく始まる『NEO表現まつりZ』では、円盤に乗る派は3つのプログラムを展開する(上演「Pray in the milky night」、ワークショップ「〈戯曲〉を〈良く〉読むためのワークショップ」、ワークショップ「切実に発話を試みるためのワークショップ」)。いずれも、昨年から円盤に乗る派が継続している、「俳優としての主体がまさに作品の主体になる」ことは可能かという問いに対する取り組みの延長線上にあるものであり、また、この一連の試みもいったんの区切りということになる。 と

          「ありふれた演劇について」50

          今月のはじめに『料理昇降機』が終わり、今は6月の『NEO表現まつりZ』及び、《円盤に乗る派》の次回公演を含めた今後の活動に向けての作業に追われている。『NEO表現まつり』は、2021年から始まる「NEO表現プロジェクト」の締めくくりであり、また《円盤に乗る場》自体も今年度いっぱいで設立から丸4年が経過する。《乗る場》は金銭的なこと諸々含め、最低4年間は続けられるという見込みでスタートしたので、そういう意味でもまもなく大きな区切りとなる。それ以後も継続して続けていく予定ではある

          「ありふれた演劇について」50

          「ありふれた演劇について」49

          先月はお休みをしてしまったので、久しぶりにこの演劇論を書いている。今は先日情報公開された『NEO表現まつりZ』の準備と、今後の公演のための諸々の調整に追われながら、プライベートでも大きな変化があったので、3人くらいのカゲヤマが同時にわらわら動いているような状況である。忙しくはあるのだけど、どこかこれまでにないような、新鮮な気持ちもする。健康第一でやっていきたいと思います。 そんな中、円盤に乗る派の『料理昇降機』の上演も来週(5月3日~4日)に迫っている。本当は先月上演する予

          「ありふれた演劇について」49

          「ありふれた演劇について」48

          ここ最近は俳優と演出の関係について考えることが多い。どうしたら、互いに齟齬のない良好な関係のもと創作ができるのだろうか。作り方がすでに共有されていたり、作品についての共通したイメージがある程度あれば、その関係はうまくいきやすいだろう。そういう意味では実験的な方法論を試そうとする団体よりは、保守的なやりかたで創作する集団のほうが演出と俳優の立場は明確になりやすい。伝統的な方法論を持つアマチュア劇団や学生劇団がしばしば強固な集団性を獲得することからも、それはひとつのありかたとして

          「ありふれた演劇について」48

          「ありふれた演劇について」47

          今月から、「テキストを読むためのワークを開発する会」をスタートさせた。俳優向けに、「読む」という体験を深めていくためのワークを新しく開発するための会だ。開催に至る経緯は詳細ページに書いてあるが、かいつまんで言えば、「読む」という体験に対してある程度の共通言語を作らなければ、演劇創作の場でのコミュニケーションにおいてどこかで障壁に突き当たってしまうのではないか? という問いからスタートしている。 第一回では、複数種類の形式のテキストを用意し、それぞれのテキストが要請してくる読

          「ありふれた演劇について」47

          「ありふれた演劇について」46

          少し前になるが、こまばアゴラ劇場でムニ『ことばにない』後編を観た。「レズビアンアイデンティティを巡る演劇」(公式HPより)を銘打った作品で、「後編」とついている通り、昨年(2022年)上演された「前編」の続編に当たる。上演時間は前編だけで4時間、後編も4時間半あり、身の回りでは内容だけでなくその長大さについても噂になっていた。 私は前編は観ることが叶わなかったので、上演台本を購入して読んだうえで後編を観劇した。同じ高校の演劇部だった4人を中心とした様々な登場人物たちが、かつ

          「ありふれた演劇について」46

          「ありふれた演劇について」45

          前回は、円盤に乗る派『幸福な島の夜』の稽古場での制作プロセスにおけるテキストの捉え方や、その出力の方法などについて紹介した。今回は引き続き、身体の運用の考え方についてまとめていきたい。繰り返しになるが、ここで紹介することはあくまで演出家であるカゲヤマ気象台の目線で文章にしたものであり、実際に本番のときに各俳優の中で起こっていたことはそれぞれ異なっている可能性はある。 3. 身体運用の可塑性について 今回の稽古場で導入していた身体運用のモチーフとして、「可塑性」という概念が

          「ありふれた演劇について」45

          「ありふれた演劇について」44

          まもなく円盤に乗る派『幸福な島の夜』の本番を迎えるので、今回の作品にあたって採用している演技のプロセスを整理しておこうと思う。とはいえ、これはあくまで私が稽古場でこのようなことを話した、ということであって、実際に俳優の中に起こっていることはこの通りではない可能性はあるので、単なるディレクション(方向性)に過ぎないと思ってお読みください。また、今月だけでは書ききれないかと思うので、来月にも続くと思います。 1.演劇のテキスト(戯曲)は「ヤバい」ものであるとの前提に立つ ピー

          「ありふれた演劇について」44

          「ありふれた演劇について・番外編1」

          【謝辞】毎月更新しているこちらの演劇論ですが、諸々の締め切りに追われてしまい、ちゃんとした記事を書ける時間がなくなってしまったので今回は番外編として、最近戯曲執筆のために導入したツールを紹介したいと思います。戯曲を書く方々にはちょっとした参考になるのではないでしょうか……。 戯曲は文章としてはかなり特殊な形態で、ただテキストで書き続ければ形になるというものではありません。役名・台詞・ト書きが分かれており、それぞれに適用させるスタイルが異なります。たとえば手元にある、新潮文庫

          「ありふれた演劇について・番外編1」

          「ありふれた演劇について」43

          円盤に乗る派の新作公演『幸福な島の夜』の稽古が、今月から始まっている。本番は10月下旬からなので、比較的まだ時間はあると言えるが、合間に長い休みもあるし、直前に詰め込むのも嫌なので、ものすごく余裕があるというわけではない。きっと、あっという間に本番になってしまうだろうと思う。 毎度のことではあるが、円盤に乗る派に初めて参加するメンバーもいるので、稽古の大半は共通言語を作り上げていくための作業になる。とはいえ、あらかじめ完成した体系や演技メソッドを用意して、それを伝達する、と

          「ありふれた演劇について」43

          「ありふれた演劇について」42

          演劇の魅力のひとつに、破綻というものがある。俳優の身体がちょっとしたきっかけ(どうしようもない癖や生理的な反応が出たり、演出でつけられたスピードに追いつけなかったり)で「素」の様相を露呈し、それがむしろ魅力的に見えることもあるし、観客の反応によって作り手が誰も予想し得なかった空気感が生まれ、思いがけない上演が成立することもある。一般的に、演劇は決して完成しないとよく言われるが、それはこうした破綻の魅力を含んだ上演がよい上演であるとされているところが大きいだろう。 とはいえ、

          「ありふれた演劇について」42