「ありふれた演劇について」45
前回は、円盤に乗る派『幸福な島の夜』の稽古場での制作プロセスにおけるテキストの捉え方や、その出力の方法などについて紹介した。今回は引き続き、身体の運用の考え方についてまとめていきたい。繰り返しになるが、ここで紹介することはあくまで演出家であるカゲヤマ気象台の目線で文章にしたものであり、実際に本番のときに各俳優の中で起こっていたことはそれぞれ異なっている可能性はある。
3. 身体運用の可塑性について
今回の稽古場で導入していた身体運用のモチーフとして、「可塑性」という概念がある。可塑性とは、プラスチックや粘土の加工の過程を想像していただけるとわかりやすいが、ある物体が外部から力を加えられたあと、その形のまま残る性質のことだ。可塑性をもつ物質で、手足を持つ人型の像を作ったと想定してみる。そのとき、確かに右手は右手、右足は右足の形をしているが、元はと言えばそれぞれ一塊の粘土に過ぎず、それが右手、右足でなくてはならなかった必然性はない。確かに外見上の違いこそあるものの、それはあくまで形状の話に過ぎず、性質的な差異はほとんどないだろう。また粘土をまた丸めて、別の人型をつくったとき、元の右手はどこにいったかわからなくなってしまう。つまり、右手は右手としての本質を欠いている。右手は「右手性」を持たず、同じように、それぞれの部分は常に一時的な形状、仮の形を示すに過ぎない。
今回俳優には、自分の身体がこうした可塑性を持っているとイメージしてみて欲しいとオーダーした。演技のときの身体は様々な形状(仕草、身振りと言ってもいい)をとることになるが、それぞれの形状における各部分はあくまで仮の状態に過ぎず、右手は右手性、左手は左手性を持たない。戯曲の進行に伴って身体は移り変わっていくが、そのプロセスはひとつの身体という一貫性をどこか欠いているように見えるだろう。これは前回の記事の有料部分にも書いた、キャラクターの不連続性と通じる部分でもある。それぞれの言葉ごとに違うキャラクターが現れ続け、ぐねぐねと変化していくように、身体の形状も不連続に変わり続ける。
このイメージは同時に、身振りを見た者が受ける情動を減らすことになる。また同時に、形状を記号として読み取りやすくするという効果もある。演技の身振りには、それを見た観客の中に「びっくりする」「はっとする」といったような情動を喚起する要素もあるし、単にその形状から、「怒っているのだ(拳を握っている)」「落胆しているのだ(肩を落としている)」「堂々とした人なのだ(腕を組んでいる)」といった、感情やキャラクター性を記号的に提示するという要素もある。可塑性のイメージのもとで俳優が運動したとき、例えば右手ならそれは右手としての本質を失っているので、それが振り上げられたとしても「まさに右手が相手を打とうとしている!」という情動を観客の中に喚起しづらくなり、単に「これは怒っているという形状なのだ」という記号の印象が強く残るものとなる。
それを含めて考えると、身体の形状が不連続に変化し続ける様というのは、記号が形を変えながら提示され続ける様子でもあると言える。そうなると身体はもはや「読む」ものとなるわけだが、この読むという行為はそのまま、戯曲を読むということと一致している。なぜなら、その身体は戯曲に沿ったものとして展開されているからだ。俳優が戯曲を読み、その体験そのままで台詞を発し、身体を運動させたとき、それを耳で聞き、目で見る観客もまた同時に戯曲を読むということになる。読むという体験が、まさに演劇を上演するということ、またそれを観るということによって、つまり一般的な意味での読書とは違う形で展開されたとき、それは「読む」というものの可能性を広げることになるだろう。そしてその場に立ち会ったあらゆる人々の中に、それぞれに違う体験を生じさせることこそが、戯曲を中心としてドラマを上演するということの意義なのではないかと(私は)考えている。
4. 反省点とこれからの課題
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