「ありふれた演劇について」43
円盤に乗る派の新作公演『幸福な島の夜』の稽古が、今月から始まっている。本番は10月下旬からなので、比較的まだ時間はあると言えるが、合間に長い休みもあるし、直前に詰め込むのも嫌なので、ものすごく余裕があるというわけではない。きっと、あっという間に本番になってしまうだろうと思う。
毎度のことではあるが、円盤に乗る派に初めて参加するメンバーもいるので、稽古の大半は共通言語を作り上げていくための作業になる。とはいえ、あらかじめ完成した体系や演技メソッドを用意して、それを伝達する、というのではつまらないし、こちらにも発展性がない。私にも演出における思想はあるが、それが具体的に俳優の中でどういう作業になるかは、別に答えを持っているわけではない。思考の種を用意しつつ、それを基にどのようにパフォーマンスに落とし込んでいくかを、稽古場の中で応答を繰り返しつつ形成してゆく。そのようにして公演毎に新しく文脈を作っていくことが、まさに演劇のクリエイションの醍醐味だと思っている。
最近の稽古では、身振りのあり方について新しく思考している。あくまでも上演するのがフィクションであり、ドラマを伝えることが主眼にある以上、身振りは欠かすことはできない。身振りはその俳優がひとつの役、ひとりの人間として存在することを示すものだし、行為に主体があるということが明確になり、ドラマを文節化することができる。誰が・何を・どうしたということが、まさにそこに表れる。その結果、架空の行為が真実味をもち、観客はそのフィクションを理屈ではなく、運動として理解できるようになる。
問題は、その身振りと、台詞の関係についてだ。いわゆる「自然である」とされている演技においては、この身振りと台詞が完全に一致した状態にある。例えば「あ、どうもすみません」と「どうもの手」を出すときに、台詞のどの瞬間に手を出すべきか、明確な答えがあるわけだ。身振りは常に台詞に従属し、台詞以上に前景化することはない。あたかもよくできた背景のように、身振りは観客に意識されることはなく、ドラマの中に溶け込む。確かに、余計なことを考えさせず、話の中身だけを伝えるためには、この方法は非常に向いているだろう。
しかしそれは同時に、あくまで「自然さ」というもののために発明された方法に過ぎない、とも言える。能や狂言といった、古くからある伝統芸能を思い浮かべればわかるように、台詞と身振りが一致していなければ物語を語ることができない、というわけではない。現代的な作品においても、例えば人形劇やアニメーションといった分野では、台詞と身振りの不一致は当たり前に行われている。演劇の身振りと台詞の関係性について、まだ十分に思考の余地はあるはずだ。
台詞と身体のズレ、という意味では、『三月の五日間』のようなチェルフィッチュの作品を想起する人も多いだろう。岡田利規は『三月の五日間』での実践について、このように書いている。
また出演者である山縣太一は、自身のカンパニーであるオフィスマウンテンでの創作において、
を行っているという。いずれも、身振りが生まれる根拠をまさに発する言葉の中ではなく、別のところに見出しているわけだ。言葉に直接身振りを見出すのは、岡田にとっては「間違い」で、「現実には、そんなことは起こってい」ないものであり、山縣にとっては「嘘」ということになるだろう。台詞と身体がズレているほうが本当であり、豊かなものだ、という主張が、そこには見て取ることができる。
今自分が考えているのは、こうしたモデルとは違ったあり方のズレについてだ。あくまでも身振りは台詞そのものから導き出される、いわゆる「自然な」演技のモデルに立脚しながらも、そこににまつわる人工的な要素、どうしても「嘘」に過ぎない部分を、誇張し、拡大して見せることはできないかと考えている。
「自然」と言われる演技においては、台詞と身振りは一致し、同期している。それは現実的にはあり得ない、人工的なふるまいだ。しかしこのプロセスを細かく見てみると、台詞と身振りは完全に一致しているわけではない。
台詞を発し、身振りが伴われるとき、そこにはほとんど知覚できないくらいの遅延が生じている(もちろん、例外もあるだろうが)。台詞が主、身振りは従であり、身振りはわずかに後からついてくるのだ。この遅延にこそ、「自然」な演技が人工物であり、現実にはありえないものだという根拠を見出すことができる。
「自然」な演技の虚偽性を誇張するとき、この遅延を最大限に引き伸ばし、拡大して見せることは有効だろう。不思議なことに、遅延があたかもないもののように偽装され、一致して見えるときにこそ、その演技は「自然らしさ」を纏う。何も考えずに演技のフィクションを受け入れられるような、観客への「たぶらかし」が発生する。目の前で起きている身振り、発されている言葉そのものではなく、想像上に浮かぶイリュージョンへと意識が向かうようになる。そうではなく、「自然な」演技におけるドラマの発生は担保しながらも、同時にその虚偽性も開示しながらパフォーマンスするとき、ドラマはまさに様々な角度、あらゆる距離感で見ることが可能な、生身の状態で現れるだろう。
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