「ありふれた演劇について」52
円盤に乗る派はこの一年、「俳優としての主体がまさに作品の主体になることは可能か」という問いをベースにしながら、いくつかの作品を発表してきた(問いの発端となったカゲヤマの演劇論はこちら)。先日開催された『NEO表現まつりZ』での上演やワークショップによってひとまずの区切りがついたので、振り返りのためのイベントを開催し、メンバーといろいろ話をしたところ、自分の中でいくつかの視点がまとまったのでここに記しておきたいと思う。
今回の一連の企画は、あらかじめ円盤に乗る派のふたりの俳優(畠山峻、日和下駄)の二人の演技論を掘り下げたうえで、それを段階を踏んで作品という形にアウトプットしていくという方法で行われた。中でも大きいプロダクションになったのはふたつの上演作品(「料理昇降機」、「Pray in the milkey night」)で、これらはいずれも日和下駄の演技論から出発したものだ。
そのプロセスについても以前の演劇論にて解説しているが、短くまとめれば、それはいかに「演技をうまくやるか」というものではなく、ひたすら「〈戯曲〉を〈良く〉読む」ということを目指す、ということが特徴となっている。戯曲に書きこまれた〈良さ〉を自身の経験と結びつけつつ、個別の〈良さ〉として構築していくそのプロセスは、全体としてのアンサンブルや統一的な戯曲解釈を目指しはしない。あくまでもそれぞれの別個の読みが重層的に存在するあり方こそが、そこでは重要視されている。
したがって、そこには全体を統制するような「作者」は存在しない。場の統一性を担保するのは、提示されたプロセス(いわば「教義」)と戯曲だけだ。いずれも意志を持たない存在であり、プロセスの提示者である日和下駄自身も、この構造の中ではプロセスによる拘束を受ける。
いわゆる「作者の意志」というものを発動させず、しかし上演の場自体は成り立たせるという行為は、非常に「俳優らしい」あり方だと言うことができるだろう。振り返り会の中で、日和下駄自身も俳優の仕事というものを「作品の責任自体は負わないが、作品そのものではある」という言い方で表現していたが、いわゆる「責任」=意志や判断を負うような作者がおらず、ただ全員が作品となるプロセスをたどるという意味において、まさにこれらの上演は「俳優的な上演」であったと言えるし、しかしそのうえで(現行の制度のもとで)誰がこの作品の作者と言えるのか? という問いには、やや苦し紛れに、そのプロセス自体を考案した日和下駄がそれに相当すると答えることは可能だろう。よって、「俳優としての主体がまさに作品の主体になることは可能か」という問いに対する答えは、(やや強引だが)「可能だ」ということになる。
ちなみに意志の介入のありかたについては、畠山峻のプロセスにおいても問題化していた。畠山は自分の演技論について、演技論という言葉よりは「演技観」という方が合っていると話す。つまり、「演技論」というと外部性があり、切り分けたり伝達することが可能だが、自身の演技に対する感覚はあまりに個人的なものであり、そういう扱い自体が不可能なのだという。そしてそれを言語化するならば、ある与えられたテキストについて、言うことの可能性と不可能性の両方に引き裂かれつつ、なんとか接近を試みることであるらしい。それは非常に個人の中での「どうしようもなさ」と向き合うことであり、「こういう風に見せたい」「こういうことを表現したい」というような意志の介入は二次的なものとなる。
さて、ではそうした意味における「作者が不在の場」というものは、どういう特質を持つのだろうか? 振り返りの場において、俳優のスタンスについて興味深い意見が日和下駄から出た。俳優は普段の仕事において作者(多くの場合演出家)がいることを前提にしているので、作者の意志が介入しない場では不安を感じる傾向がある。そのため外部の別のもの(例えば戯曲)に指標を求めてしまいがちだが、それよりは自分の好き勝手にやった方が実はこのプロセスにおいてはよい上演になる、というものだ。
換言すれば、俳優的な主体が主体となっている作品においては、出演する俳優は普段とは異なる振る舞いをする必要がある。つまり、普段の俳優の仕事においては出さないようにしている類の主体性を発揮していかなければならない。また今回は実施しなかったものの、このプロセスに演出家が介入するという可能性はあり得るが、その場合も多くのプロダクションで行われている「作者の意志を求める俳優と、自分の意志を発揮したい演出家」という共犯関係は不可能になるため、演出家についても同じくスタンスの変更を強いられることになる。
(補足だが、当然すべての俳優が上記の傾向に当てはまるというわけではないだろう。演出家の意図を汲みつつも、「自分の好き勝手に」やっている俳優もたくさんいるかと思う。ただ、俳優が所属団体の作品に限らず、多くの現場を渡り歩くことの多い現代演劇においては、作家(演出家)の意志を実現させることを重視する俳優が重宝されやすいという環境的な要因は存在していると思われる。)
さらには、観客もまたそのスタンスの変更を求められるだろう。この表現において期待されるものは、一人の作家の意志によって統一された作品ではない。むしろ、重層的な運動に身を任せるような、そういう体験になるはずだ。そこでは観客は、ありふれた観劇の時とは異なる主体性を獲得する必要がある。
こうしたことを考えていくと、もはやこうしたプロセスの上演が当たり前に可能になるためには、そもそもの演劇を取り巻く環境や構造から変化させる必要があるのかもしれない。
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