「ありふれた演劇について」48
ここ最近は俳優と演出の関係について考えることが多い。どうしたら、互いに齟齬のない良好な関係のもと創作ができるのだろうか。作り方がすでに共有されていたり、作品についての共通したイメージがある程度あれば、その関係はうまくいきやすいだろう。そういう意味では実験的な方法論を試そうとする団体よりは、保守的なやりかたで創作する集団のほうが演出と俳優の立場は明確になりやすい。伝統的な方法論を持つアマチュア劇団や学生劇団がしばしば強固な集団性を獲得することからも、それはひとつのありかたとして理解できる(よいことなのかどうかはさておき)。
演出家には演出家の役割があり、俳優には俳優の領分がある。それらがきちんと分けられていて、各人も納得しており、それぞれの創造性が十分に発揮されるというのは確かに理想的だ。そして私は以前であれば、その立場に対しては否定的であったと思う。なぜなら私は創作というものを、ここでいう俳優の立場とか演出の立場とかいうものに分けられない、もっと違った領域でこそ行いたいと考えていた。ここは演出、ここは俳優という風に分けることが可能になるのは保守的な創作においてであり、その領域を保持する限りは「どこかで見たことのある」ものしか生まれないのではないかというような問題意識が、どこかで私の中にあったのだと思う。その結果、創作現場においてはいわゆる稽古場において考えること(心理であるとか、劇的な効果であるとか)よりもっとメタ的な、言語や時間や認識についての観念的な話が多くなり、それをいかに(いわゆる)演技にしていくかではなく、俳優と共にどれだけ深くそれらの観念の中に入り込めるかということに腐心するようになった。
もちろんそれによって得られた知見はかなりあるし、作品としても一定の価値のあるものは創作できたとは思う。しかしその後、自分が徐々に比較的保守的な創作を目指すようになったのには、いくつかの理由がある。まず一つは、その方法では扱えるものに限界があるし、上演できる戯曲も限られてしまうという問題だ。自分で戯曲を書いていても、台詞のありかた、起こる出来事、描ける人物像は、ある程度限定されてしまう。場合によっては、観客に問いかけたい問題意識をうまく伝えられなくなってしまうこともある。自分の手がける作品をもっと広く世に投げかけられるもの、深く考えてもらえるものにするためには、より柔軟なありかたで創作に向かうことのできる方法が必要だった。
もう一つの理由は、結局この方法は俳優の俳優としての能力や、俳優としてやりたいことを阻害しているのではないかという問題意識が生まれたからだ。私のとっていた方法は、(あくまで原理的に言えば)俳優としての経験や知識はほとんど求めておらず、例えるなら演技経験のない人たちとワークショップをして創作をするような方法に向いていた。またそれはある意味では当たり前で、というのも私のこの方法は、舞台経験の少ない大学の友人であるとか、まだ若い俳優との創作から出発していたからだ。いわゆる演技のうまい俳優ばかりではない状況でいかにして鑑賞に堪えうるものを上演できるかについて試行錯誤した結果生まれたのが、この「誰しもが日常で行っている思考や知覚の運動についての意識を深めて、それをありのまま表出させる」という方法だった。そういう意味でこの方法は表現者としての技術を前提としておらず、俳優としての訓練を受けていないほうがやりやすいものになった。
しかし一つ目の理由と連動するように、より広く柔軟な作品を目指すためには、俳優の技術も必要となる。俳優の技術によって、もやもやと不定形だったものが何らかの形をもつ作品となるというのは、これまでの経験から言っても明らかだ。そういえばニーチェが『悲劇の誕生』の中で言っていたのは、音楽に代表される形や意味を持たないデュオニュソス的な芸術が、彫刻・叙事詩のような造形の美を目指すアポロン的なものに触れて顕現するのが演劇であるということであったが、ちょうどそのアポロンの例はここで言う俳優の仕事になぞらえることが可能だろう。
詩という喩えをあまり使いたくはないが、私がかつて創作において立脚していたのは詩の領域であったと言って誤りではないだろう。詩はもちろん素晴らしいものだが、本来の演劇は詩でありつつ、散文的なものへと一歩足を踏み出したものであるはずだ。詩でしかない演劇も存在するかもしれないが、それは決して劇的ではないだろう。
ここで言っているような、「形を与えるもの」という意味での俳優の仕事については、私の言えることは少ない。確かに、出来上がったものがどういう形をしていれば矛盾がないかとか、どっちがより見栄えがするかとか、あるいは自分にとって快であるかどうかというようなことは言うことができるが、それはどういうプロセスで作られ、どういう理屈で成り立っているのかというようなことについては、私はほとんど知らないと言ってもいい。この点については当然俳優によって違うし、創作の現場においては開示されることも少ない。
ここがきちんと開示され、まさに俳優の仕事とはどういうものなのかについて共有されるような創作の場というのは理想的だ。ちなみに、ちょうど今円盤に乗る派の日和下駄が座長となって制作している『料理昇降機』はまさにそれを目的とした企画であるが、時たま稽古場に顔を出して見ている限りでは、確かにそのような環境は生まれているように思う(稽古の具体的な様子はたちくらようこさんがレポートに詳しく書いてくださっている)。
演技を通じて戯曲から何かの形を起こすという作業は、決して簡単で単純な作業ではなく、複雑なプロセスが必要な上にやり方も無数にあるのだが、演劇の創作の現場ではしばしばそれがあたかもできて当然であるかのように扱われ、そこから先の話(どういう形にするのか、どういう風に構成するのか)の比重が多くなる。しかし、いかに演技をするかという俳優の領域に、演出家が立ち会う意味はいったい何だろうか。
それについて答えるならば、意味はほとんどない、というのが私の今の時点での回答だ。そもそも、照明機材を吊る現場に演出家が立ち会う必要がないのと同じように、演出家が毎日必ず稽古場にいることの必然性は特にないと言っていい。
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