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「ありふれた演劇について」51

まもなく始まる『NEO表現まつりZ』では、円盤に乗る派は3つのプログラムを展開する(上演「Pray in the milky night」、ワークショップ「〈戯曲〉を〈良く〉読むためのワークショップ」、ワークショップ「切実に発話を試みるためのワークショップ」)。いずれも、昨年から円盤に乗る派が継続している、「俳優としての主体がまさに作品の主体になる」ことは可能かという問いに対する取り組みの延長線上にあるものであり、また、この一連の試みもいったんの区切りということになる。

とはいったものの私カゲヤマについていえば、今回の3つのプログラムについて、具体的な制作などのプロセスにはほとんど関与していない。取り組みの総括についてはまたこの演劇論などで展開していきたいが、今のところはあくまで一人の観客として、どういうことになるのか楽しみでいる。

一方で、隣屋の「see you soon」というプログラムでは、私は「パフォーマンスディレクション」という役割を担うことになった。要するに、演技部分のみを負う演出ということだ。演出的な役割ではもう一人、隣屋の三浦雨林さんが「空間ディレクション」として、空間部分の演出を担う。両者はあまり細かく打ち合わせなどしておらず(そもそも雨林さんは今海外にいるので、制作のプロセスを直接見ることができないという事情もある)、それぞれ作った物を現地でのリハーサルにおいて出たとこ勝負で合わせていくような、そういう性質のものになると思う。

さて、演技部分の演出とはいえ、今回はこれまで私が円盤に乗る派でやってきたようなプロセスとは別の方法をとっている。どういうことをしているかと言えば、今年に入ってから円盤に乗る場で繰り返している「テキストを読むためのワークを開発する会」で制作中のワークのプロトタイプを実践投入しつつ、ディレクションを行っている。

もう少し詳細を書くと、まず大まかな演技の方向性や戯曲の解釈、演出的なギミックを提示して全体の構成を行う。その後開発中のワークを行い、戯曲についての「読み」を深めていく。その状態で、パフォーマー(秋場清之さん)には全体の構成と深めた「読み」を統合しつつ、自分にとって納得のいくようにパフォーマンスをブラッシュアップしてもらう。最終的にはまた演出家が立ち会いつつ調整を行ったりもするが、大まかにはこれが基本的なプロセスだ。

実は、似たようなプロセスは2022年に上演した円盤に乗る派extra『MORAL』でもとっていた。大きく異なるのは、『MORAL』でやっていた「読みを深める」作業は基本的には誰でも可能な、いわば読書会的なワークショップをベースにしたものだった。今回のワーク及びプロセスはまさに俳優向けに行っているものであり、その分演出もより複雑に介入することが可能になっているかと思う。

このプロセスを通じて制作をしていて、なぜ自分がこのようなプロセスにこだわっているのか、少し明確になってきたように思う。キーワードになるのは、コントロール可能なものとコントロール不可能なもの、具体的なものと抽象的なものといった二元論だ。

ワーク開発会の中で、読書のための音読と、テキストを声に出す演技の違いについて考えてみる回があった。その時に話題に出たのは、演技はいくぶんコントロール可能だが、あくまで読書という領域において文字を声に出すとき、コントロール不可能なものが優位になってくるというものだ。

基本的に読書は、自分の知らないことを文字列から読み取ろうとする。たとえ繰り返し読んでよく知っているテキストであっても、その時その瞬間に「読める」ものはこれまでとは異なっているかもしれない。常に未知なるものをこそ求める読書の延長線上において声を出すとき、自然と声はコントロールできなくなる。そこでは自分にとっての「発見」「おどろき」は、そのまま声に乗ることになる。一方で演技の場合は、声を出すときのプロセスが異なる。そこでは「こういう風に言ってみよう」といった操作が可能だ。むしろ、そういう操作が不可能な場合、それは演技ではなくなってしまうだろう。

もちろん、完全に操作された声がよい演技なのかというと、それは簡単には肯定できないだろう。古今東西あらゆる演劇人は、巧みに操作されつつも同時に不安定なもの、定まりきらないもの、偶発的なもの、そういったものが同時に介入する演技こそがよい演技であるとみなしてきた(その配分にはそれぞれの思想があると思うが)。私の考えていることも、その考え方と大きく違うことはない。つまり先ほど挙げた、音読としてのコントロール不可能性と、演技としてのコントロール可能性が両立するパフォーマンスこそが、よい演技であると考えているわけだ。

では、コントロール可能なものと不可能なものが両立するとはどういうことなのか。例えばいわゆるリアリズム演劇の場合、こういうことが起こると想定される。ある俳優がある台詞を口に出そうとしたとき、本人は平静に言おうと思っていたが、いざ発する瞬間に思いがけず役に入り込んでしまい、つい感情が声に乗ってしまった。これも一種のコントロール可能なものと不可能なものが両立した例と言えるが、その場合でも俳優がある役を演じているという事実や、その役の一貫性、その役が生きている世界の一貫性は保たれたままだ。

もしくはこういう例もある。ある俳優が、非常に激しい運動をした後に台詞を発しようとする。本人はこういう風に言おうと思っているが、肉体が疲労し息も上がっているため、うまく狙い通りにしゃべることができない。それもういわば、コントロール可能なものと不可能なものの両立と言うことができるが、しかしその場合もその台詞を発しようとするのがひとつの肉体であること、その生理的な一貫性からは逃れることができない。

つまり多くの場合、コントロールの可能性と不可能性を両立しようとすれば、どこかに強い一つの軸を設定しなければならない。上記の例で言えば、その軸は「ある登場人物の生きる世界の本当らしさ」というものであったり、「ひとつの肉体」であったりするわけだ。そしてその軸の設定がまさにその演劇人の個性になり、思想になる。

つまり、音読(読書)と演技の両立を目指すとき、軸はその両者の間に引かれることになる。そのとき私が期待しているのは、その構造そのものが不安定に揺らぐような状態だ。おそらく私は読書というものを、非常に危険な行為のように考えている。読書は必ずしもひとつの統一した世界を約束しない。それはいつでも一行の言葉、ひとつの単語によって崩壊しうる。ふとした瞬間にまったく別の世界、まったく別の体系に簡単に移行してしまうこともあるし、破裂したイメージが別のものに結びついたりもする。そうしたことが常に起こりうるのが、読書の醍醐味といっていいだろう。

そうした危険な領域に脅かされつつ、演技によってかろうじてフィクションとしての一貫性が続いている状態――それはある意味では奇跡的なことかもしれない――に、私は魅力を感じているのだと思う。それは、安定的でコントロール可能な領域を不安定にする。この世界はいつでも崩壊しうる。それがこの世界を生きる上でのリアリティだ。

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