「ありふれた演劇について」47
今月から、「テキストを読むためのワークを開発する会」をスタートさせた。俳優向けに、「読む」という体験を深めていくためのワークを新しく開発するための会だ。開催に至る経緯は詳細ページに書いてあるが、かいつまんで言えば、「読む」という体験に対してある程度の共通言語を作らなければ、演劇創作の場でのコミュニケーションにおいてどこかで障壁に突き当たってしまうのではないか? という問いからスタートしている。
第一回では、複数種類の形式のテキストを用意し、それぞれのテキストが要請してくる読み方(そのテキストと対峙したときに自然にとってしまう読み方)を検討するということをやった。参加者は、円盤に乗る派の俳優ふたりと、告知を見て来てくださった現役の俳優の方、劇団主催の方、学生のときに演劇をやっていたが今は社会人をやっている方にカゲヤマを加えて6人。テキストは、いわゆる会話劇の体で書かれた近代戯曲、シェイクスピアの戯曲、現代詩の3種類を用意した。前半では、それぞれのテキストを口に出して読み、自分が自然にどのような態度をとってしまうかについて話し合った。そして後半ではその読み方をシャッフルし、テキストAの読み方でテキストBを読み、普通に読んだ時と比べてどのような変化があるかを検討した。
結論から言えば、確かにテキストによって要請される「読み」というものはあり、特に外部から指示や演出を受けなくても、自然に読み方を変えてしまうということが検証できた。さらにこれを意識的に変化させることもさほど難しいことではなく、一度体験さえしてしまえば他のテキストにもその「読み」を転用することは比較的容易にできると思われた。しかもあるテキストが要請する「読み」の方向性は(もちろん個人差はあるものの)メンバーの中では概ね一致しており、議論の間も大きな対立は起きなかった。結果として、ある傾向のテキストを用いることによって「読み」の可能性を広げていくという方法は十分にあり得る、ということがわかったのが今回の収穫と言える。
ところで、会の初めに「読む」「読み」という言葉そのものをどの意味で解釈するかという話題が出た。読書をしたときに得られるいわゆる「読解」というような意味なのか、口に出すというまさに行為、あるいはパフォーマンスとしての「読む」という意味なのか、という違いだ。ひとまずこの会では後者のほう、口に出すときにどのようなことをやっているかという意味で捉え、そこから前者にアプローチしていくということにしたのだが、この「読む」という行為をどう捉えるかということが、実は自分の抱えている問題とかなり関係しているのではないかということに、会が終わってから気がついた。それは「読む」という行為をどのように共有していくかという問題だ。
どちらの意味でも、まず「読む」という行為は個人的な行為と言えるだろう。読んだテキストから何を得るのかということも、テキストをどのように口に出すのかということも、まずは個人的な行為として始めざるを得ない。それは自分の個人的な経験に結びつくかもしれないし、無意識的な領域とも関連してくるかもしれない。そこで起こっていることは基本的にはブラックボックスであって、本人すら自覚できないことも多々起こっているだろう。
しかし前者の場合、まだその体験を共有することが期待できる。読書会というのは、まさにそれをするための場でもあるだろう。テキストは同じものなのだから、自分の読みについて、他の人が読んだときにも同じような体験ができるということはあり得る(それが本当の意味で同じものなのかどうかはさておき)。もう少し言えば、それを共有するためのコミュニケーションというものがあり得る。ある人の読みについて、自分もそう読んだ、もしくは、そうは読まなかったが確かにそのようにも読める、あるいは、まったくそうは読めない、などといったコミュニケーションが可能だ。そしてそれらのコミュニケーションの先に、「このテキストについて理解がより深まった」という体験を期待することができる。
後者の場合、事態は少し変わる。あるテキストを自分がどのように発話するかというのは、個人的な体験にとどまる。「うまく読めた」「うまく読めなかった」という言い方がされたとき、それは結局は本人にしかわからない。確かに他の人がどのように読んだかを聞くことで、自分の読みを相対化できるということはあるし、結果として新しい読み方ができるようになるかもしれない。しかしその場合でも、あくまで「自分にとって」という一語が強く残る。そういう意味では、読みをまさに共有することの意味合いは、前者に比べると薄い。例えば前者においては、読みが対立したときに議論が起こるということは想像できるだろう。激しくなれば、「君の読みはおかしい」という言葉すら出てくるかもしれない。しかしこの場合、そこまでの対立は想像しにくい。あらかた、「へえ、君はそう読んだんだね」で終わるだろう。
違う言い方をすれば、前者の場合は「読み」自体が他者に与える影響が強い、後者は弱いと言えるかもしれない。ある著作に対する革新的な読解が示されたとき、以後の世界ではその著作の意味合いそのものが変わるということは実際にある。そして自分の現場においては、後者についての話をすることが圧倒的に多く、前者の意味での「読み」の話をすることは少ない傾向にある。
それは自分が演出をする現場で、戯曲に対して統一的な意味や解釈を定めてしまうことをなるべく避けているためかもしれない。積極的に解釈を構築していくのではなく、テキストに対して受動的になって欲しいということをオーダーしたとき、俳優が「それをどのように口に出すか」という私的な態度をとるというのは自然なことなのかもしれない(または、円盤に乗る派に集まる俳優はそもそもそういう傾向のある人々なのだ、と言うこともできるかもしれない)。
しかし前者的な「読み」においても、統一的な意味や解釈を定めないままで「読み」を深めていくことは確かに可能なはずだし、この「読み」も十分に行ってこそ、本当によい演劇ができるのではないかということを最近自分は考えている。
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