「ありふれた演劇について」42
演劇の魅力のひとつに、破綻というものがある。俳優の身体がちょっとしたきっかけ(どうしようもない癖や生理的な反応が出たり、演出でつけられたスピードに追いつけなかったり)で「素」の様相を露呈し、それがむしろ魅力的に見えることもあるし、観客の反応によって作り手が誰も予想し得なかった空気感が生まれ、思いがけない上演が成立することもある。一般的に、演劇は決して完成しないとよく言われるが、それはこうした破綻の魅力を含んだ上演がよい上演であるとされているところが大きいだろう。
とはいえ、今の時代においては、かつて許容されていたような破綻が許されなくなっているのでは、というような気もする。実際、昔の演劇の映像を見たり、あるいは何十年も活動を続けている団体の公演を観に行ったりしたときに、率直に言ってしまえば「演技が下手」と思ってしまうような人が出ていることが、しばしばある。下手というのは、台詞が浮いていたり、感情が空回りしていたり、演出や台詞に「ついていけていない」という感じがしたりするのだが、もちろん主役級の人はだいたいそんなことはないので、そういった人たちはおそらく当時でも「あまりうまくない」という認識ではあったのだろう。しかし、それでも劇の世界に居場所があるというか、「それでもよい」というような空気感はあったのではないかと思う。
それに比べれば、昨今の演劇では、全員が一定の水準をクリアしていることが多いと思う。もちろんここには体制の問題もあるだろう。かつては出演者、スタッフワークからチケット販売まで含めて、すべて自分たちで完結する劇団も多かったが、今では外部からスタッフや出演者を招くプロデュース制が主流だ。いわゆる「新人教育」的な要素は、今の演劇界ではほとんど見られない。とはいえ、メンタリティ自体の変化も当然あるのではないかと思う。「下手」とか「うまくいかない」ということを忌避するような空気というか、なるべく破綻するリスクを低減しつつ上演を成立させようとするような傾向は、私も含めた多くの演劇人にあるのではないだろうか。
「ぱっと見、完成されているもの」というのが、コンテンツとして世に認められる最低条件だ。「はらはらせずに最後まで見ていられる」という風に言い換えてもいいだろう。実際に自分の体験としては、「大丈夫かな?」と思いながら見たけどよい体験だった、ということはしばしばある。しかしそういったものを、自信を持って世におすすめできるかというと、若干心許ない。破綻については、それが周到に仕組まれていて、再現性のある破綻の場合に限っては、「安心して」見ていられる。その破綻も含めてパッケージすることが可能なのだ。
とはいえ、やはり完成されているもの、きれいにパッケージされたものには物足りなさを感じることもある。特に演劇においては、いわば「そつのない」作品には、「演劇らしくない」というような感想すら抱いてしまうこともある。やはり演劇にはどこか、安心できないものでいて欲しいのだ。演劇の破綻の可能性は、どういうところに見出すことができるだろうか?
ひとつには、破綻した部分から何が見えるかだ。破綻は、例えばこの人はこの役であるといったようなイリュージョンが崩れるところや、場全体の空気や時間の流れが中断してしまうところに見出すことができるが、そのとき露呈しているものはいったい何なのだろうか。
普通であれば、それは「素」の姿ということになるだろう。ここでいう「素」とは何かというと、社会的な関係を結ぶ可能性があるということだ。俳優であれば、それは直接対話をすることが可能な個人になってしまうことを指す。また場所自体の空気が破綻した場合、そこは例えば古代の王宮や屋敷の広間ではなく、ただの演劇を上演するための施設になってしまうということもある。
そして、その「素」の状態が魅力的なのであれば、破綻しても問題ない、というのはよく見られる解決法だと思う。俳優の舞台上でのミスを「ファン」が喜ぶ、という構図はしばしばある。しかしこの方法そのものは、あまり可能性があるとは言えないだろう。なぜかと言えば、我々はもはや個人に対して幻想を抱くことは少ない。あらゆる個人を「特別な一個人」として捉えることは難しい。強力なファンダムにおける「推し」か、興味のない「その他大勢」に二極化してしまっているのが現状だろう。そしてあらゆる演劇がファンダム化してしまうのは、演劇の可能性を先細りさせてしまうし、そもそもおそらく現実的にあり得ない。おおくの演劇においては、「ファン」ではない相手に破綻を見せて、それでも成立するように作る必要がある。
私は、破綻の隙間から見えるのが社会的な関係性を持つことのできる「素」の個人ではなく、「人間そのもの」である限りにおいて、可能性があると考えている。この「人間そのもの」というのは、「個人」という主体によって統合されていないもののことだ。それは身体の不随意な反応であったり、言語体系にアクセスするときのエラーであったり、イメージが推移するときに生まれる情動だったりする。
だがそれらについても、意図的に引き起こされたときには作為的な「くささ」が生まれてしまうし、それが見えるような状態に「無理して」なるのもよくない。このあたりは塩梅だ。極度にメソッド化せず、「立って居る」「言葉を読む」といった、誰でも可能なふるまいから出発しつつ、対話しながら丁寧に「人間そのもの」に到達するようなあり方が理想だ。
ところで、これらの考え方とは別の可能性を最近考えることがある。それは、「つくりかけのもの」という可能性についてだ。これは同時に、演劇において「つくりかけのもの」というものは可能か、という問題でもある。
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