「ありふれた演劇について」53
現在、円盤に乗る派は東京芸術祭2024で上演する『仮想的な失調』の稽古中だ。『仮想的な失調』は2022年に初演を迎えた作品で、今回も基本的には同じ演出を踏襲するので、段取りや演技のニュアンスを思い出していくことが稽古の中心になる。
芸術祭から上演オファーが来た際、団体での話し合いの中で、初演と同じ上演を目指すのか、それとも新しく創作し直すのかという話題が出た。そのとき私の中では新しく創り直すイメージが湧かなかったし、それでよいもの(芸術祭側からの期待に応えられるようなもの、とも言える)ができるという自信が持てなかったこともあり、創作し直すことには積極的になることができなかった。
しかし同時に、『仮想的な失調』という作品が持つものを、2024年という時代に対して改めて問いかけたいという気持ちもあった。この作品がもつアクチュアリティは未だに失われてはいないと思っていたし、そもそも自分自身が、あの作品はいったいどういうものだったのかについて今一度考えてみたいとも感じていた。
ただそこで、「何をもって同じ作品とするのか」という問題が浮上した。初演から2年経っているし、俳優も全く同じ演技をトレースするのは難しい。そもそも、「全く同じ演技をトレースしようとする」ことが果たして「再演」と言えるのかという問題もある。劇場も違うため、舞台の広さも変わってくるし、それに合わせて舞台美術も変更する必要がある。観客の視線の角度も違う。そこに無理やり初演と同じものをあてはめようとしても、果たして同じものになるのかどうかはわからない。
こうした問題については、その場では確か「通常の公演においても、ステージごとに微妙に演技は変わるが、それでも同じ作品だと言うことができる。そして、それは初日の演技をトレースするというのとは違う。何らかの同一性のうえに、都度都度上演を新しく行っているはずだ。同じように、今回の初日を2年越しの5ステージ目だと思えばよいのではないか(初演時は合計4ステージの上演を行った)。テクニカルについてもまた、今回の劇場に合わせつつ、印象としては同一のものになることを目指せばよいのではないか」というような結論になった。
上演はどうしても変化する。俳優のコンディションも変わるし、時間や天気、集まった観客の雰囲気によっても大きく左右される。しかし、それでもこれらが「同じ作品である」と言える何かがある。それがなければ演劇は「作品」として世に問いかけることができないし、むしろその同一性こそが演劇を演劇たらしめているとすら言うことができるだろう。
では、その作品の同一性とは、何によって保たれているのだろうか。これは人によって回答が大きく変わってくるところだと思われるが、私にとっては、「明示的な出来事の同一性」というものがかなり重要な要素のひとつであると考えている。
ここで言う明示性については、電話で状況を説明するときの口ぶりを参考にすると伝わりやすいかもしれない。例えば自動車事故の現場を目撃して、その状況を電話で説明するとき、「白い軽自動車が歩道に乗り上げて、電柱にぶつかっている。電柱は30度ほど傾いている。車のフロント部分は大きく破損している。車の中は無人である。運転手らしき人が車の横に立ち、途方に暮れたような様子をしている。」などと説明するだろう。
このとき、様々なことが抜け落ちている。運転手の着ている服の色や、車のメーカーや、道路沿いにある建物についてなどだ。それらはいくらでも言うことはできるが、この電話の目的においては言う必要がないと判断されたわけだ。だからこうした説明の内容は、文脈によって左右される。例えばこの前に、「白い軽自動車が飲酒運転の検問を無視して走り去った。運転手は40代くらいで、赤いTシャツを着ていた」という情報が置かれていたら、先ほどの電話の内容には、運転手の外見的な年齢の情報や、着ている服の情報が加わるだろう。
最近はっきりと自覚したのだが、私は演出家として自分の演劇を観るとき、こうした明示性を強く意識している。俳優は稽古のときに色んなアプローチを試すが、そのとき明示性が変わってしまうと、自分の中ではそのシーンが全く違ったものになってしまう(=シーンとしての同一性が保てなくなってしまう)。自分にとっては、「どのように明示するか」と、「ひとつの明示的なシーンを保ちつつ、その中でどのような表現をするか」は異なったプロセスであり、この両者はなるべく明確に切り分けたい。
今回の上演においてはアクセシビリティへの対応のため、回によっては音声ガイドがつく。視覚障がいの方など、視覚的な情報を得ることが難しい方むけに、舞台上で起こっていることを音声で伝えるサービスだ。先日その原稿をチェックしていた際、原稿を作った方と自分とで、情報の受け取り方に差があることに気づいた。原稿は初演の映像を基に作られたものだったが、例えばある人物について「ふらふらと歩く」という下りがあった。これについて私はそのシーンに、「ふらふらと歩く」という明示的な意味を見出していなかった。私にとってそのシーンはただ「歩く」というだけだった。
確かに、そのときの俳優の演技は「ふらふらと」と言うこともできるかもしれないが、それには明示的な意味があるというより、ただの歩き方の特徴であって、私にとってそれは例えばここで抜け落ちている「両手の所在」とか「身体の傾き加減」とか「一歩当たりの歩幅」などと同じ領域にあった。「両手を体の両脇に垂らして歩く」とあえて表現する必要がないのと同じように、わざわざ「ふらふらと歩く」という必要はないのではないかと感じたのだ。
先ほどの自動車事故の例に即せば、ここには「ふらふらと」と明示するための文脈が存在していない、ということになる。例えばこの前に当該の人物がお酒を飲むシーンがあり、酩酊しているという情報があったなら、「ふらふらと」は文脈的に必要になるだろう。しかしそうではないのであり、そもそも演技の加減によっては「ふらふらと」歩かない可能性もあった。
では、もう一歩突っ込んで問題としたいのは、そもそもその文脈は何によって作られているのかということと、そうした明示性に立脚した考え方が、演劇にとってどういう意味を持つのかということだ。答えを先に言えば、私はそうした文脈は「戯曲」に依存すると考えており、明示性に立脚することで演劇は「自由」な領域を担保できると考えている。
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