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「ありふれた演劇について」54

先日マガジン内で告知した通り、今月いっぱいをもって円盤に乗る場の定期購読マガジンが終了となります。それに伴って、この演劇論も今回が最終回ということになるわけですが、内容はいつもの通り書こうと思っています。

最近、東京芸術祭に出る関係で、いろんな媒体で《円盤に乗る派》という団体について話す機会が増え、改めて《円盤に乗る派》とは何なのか? ということをしばしば考えている。

《円盤に乗る派》は、「複数の作家・表現者が一緒にフラットにいられるための時間、あるべきところにいられるような場所を作るプロジェクト」を掲げている。この内容自体は、スタートから6年ほど経った今でも取り組むべき課題であると思っているが、団体を取り巻く環境は変化しており、同様にこのテーマに対する気持ちも当初から変わってきている。

大きな変化はふたつある。ひとつは、当初は実質カゲヤマのソロプロジェクト状態であったのが、新規メンバーの加入によって団体としての性質が強くなったこと。もうひとつは、公演規模が大きくなったことだ。

先ほどの「フラットにいられるための時間」云々は、《円盤に乗る派》が作る(主に、作品を取り巻く)場所について指しており、それを作る主体である《円盤に乗る派》という団体の内部の状態も指すかどうかは、断言されていない。というか、当初はソロプロジェクト状態であったので、団体内部という概念はなかったと言っていい。その状態で書かれたステートメントであるから、これが団体の内部を指すかどうかは「解釈による」としか言えないと思っている(どこかで聞いたような議論だ)。

当初は私も、このステートメントは団体内部にもそのまま適用されると考えていた。しかし団体として企画を進めたりしていくうちに、なかなかそのまま同じような考えで運用していくことは難しいと考えるようになった。いまでは私は、このステートメントはいったん団体内部のありかたとは切り分けて考えている。

表現の場は、基本的に自由が確保されている場所だ。そこには正解や間違いはなく、制約も責任も生じない。中途半端であってもいいし、完結していなくてもいい。途中でやめてもいい。表現の場というものはそもそもそういう場であるから、「複数の作家・表現者が一緒にフラットにいられるための時間、あるべきところにいられるような場所」は可能になると考えている。

しかし現代社会の中で表現という行為をするためには、表現するための場を作らなければならない。演劇の用語で言う、「制作」と言われる領域だ(演劇で言う「制作」は、クリエイションについてではなく、組織内のマネージメントやコーディネート、広報や来場者対応などの事務的な業務全般を指す)。ここは表現の場とは違い、正解や間違いが存在し、法律や慣例による制約も多く、行為に対してまさに責任を問われるような場所だ。

表現の場に入れてはならないものとして資本主義と官僚制があるとしたら、制作というのはまさにこれらとぶつかる場所だ。逆に言えば、資本主義や官僚制が表現の場に入り込まないようにせき止めるのが、まさに制作という領域であるというイメージで私は捉えている。

そうした作業を、フラットな組織で行うためには困難が伴う。価値観や能力、割けるリソース(時間的・体力的)などに差がある場合、フラットにやろうとすればするほど特定の誰かに負荷がかかってしまう。その負荷には、仕事量の偏りもあるし、責任のような精神的負担の偏りもある。そして身の回りを見る限り、それら制作面での価値観や能力が近いから団体を組織する、ということはほとんどない。《円盤に乗る派》もそうで、別に仕事に対して一緒に取り組むために集まったメンバーではない。

しかし、そうした制作的な領域は、誰かが担わなくてはならない。官僚制と資本主義にぶつかる限り、「負担だからやめた」は言えなくなる(やめるときは正当でしかるべき手順が必要だ)。もちろん、《円盤に乗る派》では企画のたびに外部の制作を招き、多くの業務を外注している。しかし団体の側でやることがなくなるというわけではない。そもそも、責任というものは外注できない。

実務的な面のフラットさを担保することが難しい以上は、「実務は特定の誰かに偏るが、意見はフラットに取り入れる」という形が望ましくなる。しかし、実務を担当する人間のリソースは限られている。「意見は取り入れたいが、現実的にそれは難しい」ということが出てくる。《円盤に乗る派》の現状はこれに近いと考えている。もともとカゲヤマのソロプロジェクトから始まり、金銭的な最終的な責任はカゲヤマが負っているので、どうしても実務や責任はカゲヤマが多く背負う形になっている。なるべく意見を広く取り入れたいと意識はしているが、やはり現実的な限界はある。

それでも当初は、まだ公演規模が今ほど大きくなかった分、私にも背負える余裕が比較的あったのではないかと思う。しかし幾分拡大した今になっては、(とはいえ総数客数でいえば1000人にも満たないのだが、それでも)その余裕はかなり減ってきてしまっているというのが正直なところだ。

したがって、《円盤に乗る派》の団体内部がフラットなのか? という問いに対しては、「なるべくそうありたいと考えているが、現実的に可能な範囲内で、という留保がつく」というのが実体だろうと私は考えている。

個人的には別のありかたを思いついてはいる。ただの思いつきであり、いくぶんラディカルな方法で、あまり現実的ではないだろう。しかし理想として考えてみる分には楽しい。それは、「それぞれが自分の背負える最低限の仕事、責任を負い、その総和で団体を運営する」というものだ。

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