クトゥルフは現代日本が舞台のゲームである
ちょっと前の「TRPG(CoC):初心者プレイヤーの悩み」について。
https://note.com/trpg_nemo/n/n5b464b436134
私は当初、TRPGとは自らが用意したキャラクターの性格に合わせて、まるで彼らが生きているかのように行動するゲームがだとばかり思っていた。
しかし、数卓やってみたところTRPGとはシナリオ作成者が考えるキャラクターになりきって非日常的な経験をする遊びだったのだ。
twitterでは「プレイヤーがこうしたいと提案しよう」や「プレイスタイルが~」などと言われていたが、より根本部分での齟齬があると思っている。
ここからの話とは少しずれるが、一つ問いたい。「クトゥルフは現代日本が舞台なのだろうか」
私のこの記事は「元々のゲームは1920年代のアメリカがー」という話ではない。遊ぶ際に「クトゥルフは現代日本が舞台で~」と説明していないだろうか。今回はそこの話である。
「元売れない芸人の独り言 」の2011年11月4日の記事「サンキュータツオさんの「漫才文体論」レポート(各論編)」を読もう。
・漫才コントの利点
タツオさん「漫才コントの最大の利点は、フレーム(スキーマ)を利用して前フリを省略できること」
…これも、ハッキリと言ったのはサンキュータツオさんが初めてなんじゃないだろうか。
フレーム(スキーマ)とは、それを聞いただけで勝手に映像化される情報のこと。例えば「家」と言われただけで「屋根がある、キッチンがある、テレビがある…」という情報が出てくる。わざわざ「ここに屋根があって…」と前フリをする必要がない。物だけでなく「出来事フレーム」もある。「レストラン」と言われれば、説明されなくても「名前を書く→店員が来る→人数と喫煙か禁煙かを聞かれる→メニューを見る→注文する→食べる→会計する」という流れが浮かぶ。それを裏切るだけでボケになる。
違う日の公演ではあるが、動画はこちらである。
CBCテレビ「本能Z」の2016年5月21日放送でも同様のことをサンキュータツオ氏はおっしゃっている。
さて、本題に戻ろう。これは「現代日本」というフレームで何を思い浮かべるかということだ。もっと言えば、「TRPGとは」という説明にすら踏み込んでいく。「TRPGはキャラクターになりきって~」などと説明しているのではないだろうか。
クトゥルフ神話TRPGを遊ぶ上での説明をしてみよう。
TRPGとは自分たちが作ったキャラクターを使って、紙と鉛筆と会話で物語を作り上げるゲームです。
そんな中で「クトゥルフ神話TRPG」とはHPラブクラフトが作った小説がもとで、旧支配者や外なる神といった人智を超えた存在がいてそれに対抗したりするゲームです。
今回は現代日本が舞台のシナリオです。
「現代日本」が定義が曖昧で難しいなどは今回は関係ない。「現代日本が舞台」というスキーマで何を思い浮かべるかということだ。
なにか身近に重大な事件があったとしよう。本当に君はその事件に能動的に首を突っ込んでいくのではないだろうか。警察に任せたりしないのだろうか。これは自分が「現代日本で具体的に事件が起こったときに何をするか」だ。しかし実際は、事件に積極的に関わっていかなければならない(少なくともプレイヤーは)。
次はクトゥルフ神話TRPG(サンディ ピーターセン、リン ウィリス、KADOKAWA/エンターブレイン、2004)からの引用である。
プレイヤーはゲーム中”探索者”の役を引き受ける。(中略)彼らは手がかりや証拠を探し求め、それらを吟味し、様々なことを知っていく。(中略)常に自分が一生懸命ロールプレイする気になるような探索者を創造していくのがよい。
探索者という者は好奇心旺盛で、自ら能動的に事件を解決しようとしなければならないものだ。GMと「協力して」お話を前に進めなければならない。
何故浅見光彦は事件に関する情報を教えてもらえるのか。主役で活躍させるためだ。
何故石原葬儀社は事件に関する情報を教えてもらえるのか。主役で活躍させるためだ。
フィクションの主人公であるがゆえに、PCは主人公たる何かをしなければならない。つまりは「クトゥルフは現代日本が舞台」ではないのだ。「クトゥルフは現代日本が舞台のゲーム」なのである。
説明の際に強く「これはゲームである」ことを印象づけるべきである。「君たちが解決しなければそのままシナリオは終わる」のではない。「君たちが解決するように動かなければ、ゲームが成立しない」のだ。