俵屋宗達への熱い思いだけが、道しるべ……
早速、俵屋宗達のための基礎データの構築の作業に入った。まずは、年表作り。しかし、俵屋宗達の基本的なデーターは一切ない。生まれた年はおろか、没年もはっきりしない。さらに、彼の作品の製作年もほとんどわからない。とにかく一番古い彼の作品と思われるのが、福島正則が修復を依頼した「平家納経」の一部の絵だとか。墓も京都と金沢の二箇所にあると言われているだけで、確証ない。
とりあえず、彼と二人三脚で歩んで来た本阿弥光悦の年表だけでも手に入れようと資料を探してみた。しかし、彼についても出てきたのは生まれた年と没年月日、そして光悦芸術村と言われた「徳川家康から鷹ヶ峰を拝領した」年が、出てきただけ。あとは、全く年表にならない。とんでもないテーマに手を染めてしまった、と弱気になって来た。
さらになんとかとっかかりになるものはないか、と本阿弥光悦の研究資料を当たってみた。すると、以前に見たことのある名前が出て来た。それは、「五十嵐」という苗字である。五十嵐というのは、本阿弥光悦が活躍した頃の京蒔絵の職人である。その家系の一人に五十嵐道甫の名前も出て来た。
利休が切腹する日の朝、最後のお茶を孫の宗旦に利休のお気に入りのお茶碗で点てさせた。そして、飲み終わると利休は、
「これも、もう用無しだ!」
とお気に入りのお茶碗を庭に放り投げて割ってしまった。四方に飛び散ったお茶碗のかけらを拾い集めて、もう一度お茶碗の形につなぎ合わせたのが、先に出て来た五十嵐道甫である。しかも彼は一時期、前田家から屋敷を賜って金沢で暮らしていた。その頃、宗旦の息子の千仙叟宗室(せんそうそうしつ・裏千家始祖・千宗室)も、加賀藩主五代・前田綱紀候によって京都より招聘され、茶道の指南役を命ぜられて五十嵐と同じ頃に金沢に住んでいた。さらに楽家四代・一入の弟子、長左衛門が仙叟に同道して金沢に移り、大樋村の土が焼き物にいいということで、大樋焼を始めた。
そして、その頃、俵屋宗達は現在の金沢市の片町二丁目(当時・木倉町)あたりに工房を構えていたという確証のない話まで出て来た。
バラバラの情報が散発的に思い浮かんで目について来たけれども、なんとか小説の登場人物が見えて来て、しかも主人公の俵屋宗達との繋がりが見えて来たような気がしないでもない。しかし、あくまでも根拠の希薄な情報のカケラたちである。
ここに時系列のフィルターをかけると、どんどん落ちていく情報も出てくるのだろう。検証すること自体が怖くなってくる。せっかく思い出したり見つけ出したりした情報が、どんどん消えて行きそうで……。そうなってくると、また新たに情報を探して再構築しなくてはならないのかと思うと、気が重くなる。
しかも、この俵屋宗達の物語の基盤を京都から始めるのではなく、あくまでも能登と加賀藩から始めなくては、私が書く意味がなくなってしまうのである。だから、なんとかこじつけでもなんでも、能登と加賀から物語を始めなくてはならない。そのため根拠の希薄な情報でも、とにかく手がかりになりそうなものを集めて、再構築していく努力をするしかない。
壁が高ければ高いほど、萌えてくる私の性格のはずだから。
この先、私の熱い思いだけが道標(みちしるべ)である。
創作活動が円滑になるように、取材費をサポートしていただければ、幸いです。