東京美術学校卒の義父ー③
彼は戦前の、富山の庄屋の末っ子だった。子供の頃から絵を描くことが好きだったという。
「学校のない日は、野山に行って絵を描いていた」
彼は上京して、東京芸大の前身の一つである東京美術学校に進んだ。専攻は日本画だった。
「帝大の学生とは上野駅のホームで、よく睨み合っていた」
と、当時を思い出し、笑みを浮かべて語る。
彼は卒業すると、輪島の漆器作りに職を得た。当然、日本画を学んでいた彼は「蒔絵師」になった。やがて当地で家庭を持ち、子供にも恵まれた。しかし、だんだんと彼の中に疑問が成長して行った。彼は決断した。
「蒔絵では、私の情念は表現できない」
輪島に妻子を残し単身、上京した。
私が彼と初めて会ったのは、彼が美術の教師を務めていた都内の中学校の美術室だった。学校は夏休みで、生徒の居なくなった美術室で、彼は大きなキャンバスに向かっていた。そこへ、付き合い始めたばかりの頃の妻と、会いに行った。
しばらくした頃、彼と二人で酒を飲んだ。とは言っても、彼は一滴も飲めなかったのだが。
その時、彼女についての疑問の全てを彼にぶちまけた。それくらいに、当時の彼女は、私に取ったは不可解な存在だった。
「わたしの生涯のテーマはゴーギャンの、人は何処より来たりて何処へ去るのか、という言葉です」
と、語っていたのが今でも記憶に残っている。
彼は、私の長男が一才を迎えた夏に他界した。
千里の浜 真砂つかみし 夢の如し
一度、家族で能登の千里浜を訪れた。彼の墓石には、その時詠んだ句が刻まれている。
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