煩悩のほかに、神聖なものは無い!-⑱
手に入らない資料を待っていたのでは、一向に進まない。そこで、今までやったことのない手法を取ることにした。つまり、モザイクのピースを一つ一つ作りためて、あとで並べる方法である。
これまでは、「石川県史」という資料で、大体の人物の主な生きて来た軌跡を追跡することが出来た。しかし、今回ばかりは、そうはいかないようだ。まず第一に、頼りにしていた「石川県史」には、ほとんど長谷川等伯のことが記載されていない。まあ、いろんな都合があってそうなったのだろうけれども。所詮、「石川県史」は前田家を中心とした加賀藩のメインストリートの歴史でしかないと思えて来た。また、そういうことが主たる目的でまとめられたものなのだろうと、推測ができる。ほとんどの活躍の場が京都だったことから、関係性が希薄ということで省かれたのだろう。ましてや、「石川県」と言っても等伯が生まれ育った能登の七尾は、加賀とは異質である。あまりにも資料がないということから、ついそう思わされてしまうのだが。
そこで、何としても「長谷川等伯」の小説を一歩でも二歩でも、はたまた半歩でも進めるために、これまでとは違った方法で書き進めることに決めた。それは、「ジグソー・パズル」の「ワン・ピース手法」である。
『全体が見えないから、と言って諦める』のではなく、とにかく『見えている「ワン・ピース」を書き溜める』ことから始めることにした。そして、後から、それらのワン・ピースを画面いっぱいにはめ込んでいくのである。それ以外に、現状を打開する方法が見つからない。だからと言ってただただ、手に入らないものを待っていたのでは、一歩も進まない。それに、そんなことをしているうちに、どんどんモチベーションが低下していく。熱が覚めてしまう。そうなっては、どうしようもなくなってしまう。そう思って、決意したのだった。『煩悩の火を消すな! 煩悩はすべての原動力!』と自分に言い聞かせながら。
長谷川等伯のプロットを考えながら、思い付いた会話を、少しづつ書きためる。例えば、等伯と利休の絵画に関する会話とか。二人の会話に関して、これと言った記録が残っているわけではない。だから、その時期の二人を取り巻く時代の状況から考え得るファクターを積み重ねて、類推していく。「茶禅一味」についての考え方とか。
大きなシーンとしては空想だが、鷹ヶ峰の光悦村に集まったであろう本阿弥光悦、千利休、長谷川等伯、そして加賀藩二代目当主の弟、前田利政。その中の一人のお点前で、茶を楽しみながら芸術談義で盛り上がるシーンとか。いいねえ。考えただけでゾクゾクしてくる。光悦はのちの俵屋宗達にも影響を及ぼし、琳派へと発展していく。そうなると、若き俵屋宗達も加えたいですね。
茶室の主人の光悦が俵屋宗達に、
「若造には、まだ早いかもしれんが、絵っちゅうもんわなぁ」
と光悦が高説を唱える。すると等伯が、
「まあまあ、光悦殿。宗達はんかて、その辺のことはようわかっとりまっさかい。そないに高飛車に言わんかて、なぁ」
すると、千利休が、
「この一椀に、私の全てが包み込まれておりますさかい」
とか、拍子抜けなこと言ったりして。
書く前から、気分が盛り上がってきましたわ。と言いながらも、原稿用紙が全く埋まってない……。スクリーンのWordの原稿用紙のマス目がです。
創作活動が円滑になるように、取材費をサポートしていただければ、幸いです。