「山水に清音あり」 市井に住む隠遁生活者「大隠」
中国の古い言葉に「大隠、中隠、小隠」というのがある。いずれも、世俗を離れて仏道修行や思索の生活に専念している人のことを言う。その中に「大、中、小」の隠遁生活があるというのも、どこか滑稽であるが。
ちなみに「大隠」は街中に住む隠者、「小隠」は山紫水明の自然の中。最後の「中隠」については白居易が提唱した言葉で、自然と街の中間に住む隠者である。強いて言えば「人境」ということらしいが、例えば「里山」と言う所だろうか。いずれの隠者にもそれぞれの魅力は感じる。しかし、ネオンサイン好きの私が一番渇望して止まないのはやはり、街中に棲む「大隠」である。
ところで冒頭の「山水に 清音あり」というのは、中国の西晋時代の文人、左思の「招隠詩二首 其一」の句である。
(前略)
山水有清音 何事待嘯歌 灌木自悲吟
(後略)
大体の意味は、
自然の中には清らかな音がある
どうして、飾りたてた歌を望むのか
耳をすませば、木々はおのずから
憂いのある歌を歌っている
というところだろうか。
何も人生の憂いを感じさせてくれる歌を聞くために山紫水明を求めて、深山幽谷を尋ねることもないと思うのだが。自分ながら、そんな場所に行く金銭的余裕が無いことの、負け惜しみであるが。
血気盛んな頃、新宿のゴールデン街や新宿2丁目、さらには歌舞伎町界隈で過ごしてしまった私には、そこが私にとっての山紫水明、深山幽谷なのだろう。強いて吟じるとすれば、こうである。
男女の欲望 渾然一体となり
地殻のマグマの 激流となって渦巻き
表層を七色のネオンサインが キラキラと息づく
欲望の山紫水明、深山幽谷
おのずから、生命の清音を奏でる
である。これ以上の命の輝く景観を今だかって
感じたことはない。
やはり私は「大隠」に憧がれる。
男と女の命の激流渦巻く、その流れの中でたとえ年老いて身体が不自由になったとしても、命の輝きを見ていたい。