
彼の生きる言葉を拾った時、僕は何を思うのか
最近、自分とは違う種類の苦難と必死に戦っている人を画面越しで見ている。
彼は昇華の表現が素敵だ。
到底敵わない程にかっこいい。
対して僕は写真を撮られるのはとても苦手だ。
理由は簡単で、隠している姿を撮られて、それがずっと残ってしまう。
あの人が歌うように、そのまま"古くなる"のが嫌なのだ。
だけれど、自分の存在出来る何かを見つけたいと思っている。
歳を重ねる毎に、どんどんと矛盾も大きくなっていく。
今まで自分の生活において、左手を表立って出すことは本当に避けてきた。
写真や動画を見返す時には第一に、左手から確認する程に。
立つポジションにも工夫を凝らしたし、
小学生から高校時代は夏場であっても、出来るだけ長袖を着て登校していたし、左手はポケットに入れたまま猫背で歩いていた。
が、
そんな事はお構いなしに、毎日のように同級生や上級生に「ちょっとそれ(左手を指差して)見せてえや!」と言われ、
散々な言葉を浴びせられても笑って誤魔化してました。
それからというもの、恥ずかしながら"ステレオタイプ"の枠にはまってしまい、今もまだ抜け出せずにいるのが現状です。
過去は過去なんだけれども、未だに囚われの身です。
それ故、腫れ物扱いされている事に最近気付きました。
「隠しているから触れられたく無いんだな。」と、距離を置かれる。
単純。
が、まだ一歩を踏み出せない。
理解はしてるけど、脳がGoサインを出してくれない。
周りには地雷が埋まっているような気がする。
どの写真を撮れど見せれる勇気が無い。
その点彼はそのままの感情を吐露する。
そういった姿を見ると僕は、ロトの剣を持った勇者を見ているような気持ちになります。
多分本当はそんな剣を持たずとも平和に暮らせる世の中が望ましいのでしょうが、戦わざるを得ない現状。
平穏がいつ訪れるかはわからないが、今を切り開く姿見ると涙が出そうになる。
いつかは乗り越えたいとは思っている。
いつかは。