神も仏もあるものか、と聞こえるとき

振られました。辛い日に会いますと辛い心に悩まされます。なんでなんだろう、いや自分は悪くない、いや悪かったごめんなさい、いや忘れよう、しかし教訓にしなくては、自分だけが可愛いのか人を傷つけておいて、グルグル廻っています。

先人を訪ねるのは生きる知恵と死んで後悔を残さないためかもしれません。

社会人になり同窓会に出ますと、ちょっと聞こえるのは、もっと勉強しておけばよかった、早く金融と投資のことを学んでおけばよかったという声でしょうか。

人生で幾つか躓き失敗しますと、なんでこんな目に合うんだろうかと思います。そういう時に素直に振り返られたり、正確に分析できたらいいですね。

間違って自分の負の感情が嫌だから誰かのせいだけにしたり、まだ間違っていないとか、まあいいか気にしない忘れよう、とか現実逃避し自己防衛したくなる気持ちも出るかもしれません。

基本的に人間も動物で、上か下か、損か得か、というのも自己保身、自己実現、存在理由という個の保存と種の保存が心の底から湧き起こってくるものに左右されやすいかもしれません。

子供の頃、学生の頃に失敗を、わざわざする必要はありませんが、経験がなく大人になり年をとってからの智慧のなさには泣きを見ることがあります。

ターニングポイント、分岐点は多くあります。子供の頃は大人から言われていた、勉強しろ、宿題をやれ、試験対策しろ、遊ぶな、なんで言うことを聞かないのか、等々聞かされました。

反発しすぎた人はヤンキーになり同窓会では闇金とやくざになっていました。そう極端でなくても化粧した元同級生がそう言って、勉強という言葉が出るのは社会人は不平等で、人間も動物だということでしょうか。

積み重ねが大事、経験したことでしか物事は測れない、何でしれたのでしょう。

まずは学校でしょう。いやいやでも全く勉強しなかったわけではありません。同級生と過ごせたから同窓会にも誘ってもらえます。親友もいた人もいるでしょう。部活や趣味を頑張った人もいるでしょう。

振り返れば懐かしく目頭は熱くなり、胸が締め付けられる思いもあるかもしれません。

若くして命を絶とうと思う人もいるでしょうが、落ち着かなくても生き延びてもいいように思います。

辛いときは辛い動物一匹いるだけのように感じるかもしれません。

浄土真宗の『正信偈』に

ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ
がやくざいひせっしゅちゅう
ぼんのうしょうげんすいふうけん
だいひむけんじょうしょうが
極重悪人唯称仏
我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見
大悲無倦常照我

という一節があります。
悪極みなき者とは現代では聞きにくいかもしれませんが、執着と自己愛から離れられず地獄餓鬼畜生と関係せざるを得ないものとも言えるかもしれません。

たとえ仏様のお救いに遭っても日々の生活に右往左往し満足し切ることも安心し切ることも永遠がない。戦争と飢饉や災害はその極みでしょう。

身を煩わせ心悩まされ真実見えないもの
如来の大いなる慈悲は我が身を照らし包み捨てられることがない
という救いに聞こえさせられると、頭の高い自惚れの凡夫でありながら頭が下がるということがあります。

自分は悲しいのになんで世界は私に構ってくれないのだろうか。どうしてわかってくれないのだろう、どうして慰めてくれないのだろう、どうしていじめてくるのだろう。そういう負の感情のスパイラル、沼化してしまうときもあるかもしれません。

法然聖人、親鸞聖人、蓮如上人を知ってもらえたら少し軽減されるかもしれません。苦しみは消えず不安も消えきらず問題も日々生まれるでしょうが全ての終わり、死の際に出る先、死後が浄土であれば安心です。

浄土へ生まれさせるのが浄土宗、法然聖人から教わります。智慧をもらって浄土をありありと見え感じるようになるのでもないときくと不安でしょうか。なんで出る先が知らないんだ、救われたらはっきりするんじゃないのか、ひたすら満足安心のみになるんじゃないのか。そういう疑問は実はまだ自己中の真っ只中で、はたから見ると頑固爺そのものです。自分では認めたくないものです。

辛い時は時間が解決するかもしれません。ひたすら聞いてくれる親友がいればいいですね。親子関係や親戚付き合い、近所付き合い、学生時代の友人、元同僚、人間の温かさで助かる時もあることと思います。

もしくは極楽浄土の主である阿弥陀仏直々の願いをおきかせにあずかったら、見えない聞こえない浄土だけれども、願いと阿弥陀仏の名は聞こえる。そういうときがある可能性のある人生です。

世間法にしろ出世間法にしても、御縁によって変わってきます。繋がりがすべて切れてしまえば絶望しか無いと思う前にお念仏しましょう。

蓮如上人は、世間のことも後生のことも重い腰にならないほうがいい、軽々としたほうがいいと言われていたのをなかなか分かりませんでした。

自己に耽溺し、自己中を発揮して、御縁によって関係性の中で暮らし、生活しているにも関わらず、積み重ねや感謝を忘れ怠けていては後悔する。

後生も阿弥陀仏のご修行の成就の南無阿弥陀仏をお聞かせにあずかり、後生が生きている間に解決する法を聞かずに終わるのはもったいないことで、楽しいことや悔しさや口惜しさで人生を送るばかりでは、流転輪廻を免れない。

自分が自分がでは、世の中のことも仏法も浄土真宗も、ただ生きて死んだだけ、人の言う価値観に振り回されただけ、残念でありましょう。

未来も過去も見えずとも聞こえる手がかりがあるとお聞きします。

親友や家族を大切に、御同朋御同行を尋ねましょう。信心の側面に心開かれるということがあります。正に願われているのは清浄なる円満な阿弥陀仏からだから、隔てない願いに遭うということ、お聞かせにあずかりお念仏するということです。そこから少しだけ自分の殻から出てみようと思われる気がします。

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