三つの髻 利養 経営 価値創造

お金欲しいです。それもたんまりと。小さい頃はお金なんて求めるのは意地汚いとか潔癖でいたいと思いました。そうしてこじれて中二病のまま中年になり孤独死コースです。将来老後2000万円とか言っていたのが今では5000万円いるとか。ホントかいな、と言ってる場合ではなく、アリとキリギリスのごとくもう青春とか恋愛とか言ってられません。

宗教家も生きていますのでお金が必要です。しかし宗教と金というように噂とやり玉に上がる1つの話題かもしれません。

テロリストの麻原彰晃ことオウム真理教教祖の松本智津夫は人を電子レンジで消したりして最後は壁の中で100万円握って隠れてたところを警察に見つかりました。

幸福の科学教祖の大川隆法こと中川隆は長男を籠絡しようとしましたが仲違い、裁判沙汰の中で神やらブッダやら生霊やら霊言だの言いながら死にました。今は残った教団職員が真似をして正統後継者の長男を訴えながらイタコ業のようです。マクローリン展開やフーリエ変換解かせてみたいですね。浮動小数点とか化学式やら面白そうです。

創価学会も公明党を作って中国共産党から出先機関のようにされてる噂があるそうです。訳わかんないですが、『憚りながら』という本や『黒い手帳』という本から暴力と金の汚いことが関係者や当人の告白でわかっていても信者さんは福運を宇宙銀行に貯めるために選挙や新聞販売をするそうです。

エホバの証人も教祖はお墓が何やら違うマークがあったり上から下まで貧民のはずがごくごく一部のものは高価な腕時計をしているそうです。

統一教会は言わずもがなです。もう今年の告白でも年100億円送金するそうです。わけわかりません。人類救済してるのに高額商品売ったとかツボ売ったとか訴えてばかりで酷いと信者さんは言ってるのを見てしまいました。ひっくり返したらお金のために、ありもしないする必要もない人類救済でつられてるのですが見えない聞こえないのです。

仏教界も時折聞こえますが、もはや中国人によって脱税のために買われてしまうそうです。空き寺が減ったのか邪なものが仏教で騙すのか。

浄土真宗におきまして、お布施の話はなかなかデリケートではありますが、もはや寺院経営にはごく一部を除いてきつい現実ばかりです。それもこれも努力不足かと言うと限界を超えてる気がします。

毎日働かないと食べていけません。勉強しないと20代のままで過ごせません。それでも多くの人が見て聞いているのはマスメディアでありテレビです。

お参りして阿弥陀様に礼拝しお念仏しましょう。ここまでは多くの人が聞いてもらえます。では阿弥陀様の願いに疑いなくお念仏しましょう、衆生は煩悩悪業ばかりで阿弥陀様のお念仏から助けていただきます。となりますと拒否反応される方、ぽかんとされる方、残念ながらみんながみんな賛成されません。それもご縁あっての中ですので、ご縁ない、ご法事も臨終勤行お通夜お葬式、なんでそんなにいるの、という人には無駄な経費のように思われるかもしれません。

しかしながら古今東西、お墓や祭事や供物や花の手向けにお酒を注ぐといったことは絶えません。縄文時代から西洋も東洋も死者を弔う、供養するということは多くあります。それは人間の生の渇望や讃歌とともに死への畏怖と慰めもあるかと思います。

そのなかでどうしたら人間は救われるのだろうか、という問いが生まれる人もいます。宗教が答えるのはそういう人へでしょう。

浄土真宗で分かりやすいのは『歎異抄』第18条とその直後の話かと思います。お金を仏法にかこつけて欲心に漬け込んで言い脅すもの、それは信心が異なるからだ、とあります。

「いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。 右条々は、みなもつて信心の異なるよりことおこり候ふか。」

そんなこと言っていない、救われるのは他力だ、それまで自力なんだから精一杯させていただくのだ、そうしないならどうして信仰が進むということがあるのか、という団体宗教者が、文字にせずに言うものがおります。宿善積みと組織隷属と指導家評価積みなんですけどね。

『口伝鈔』の五に覚如上人はおっしゃいます。

「自力の修善はたくはへがたく、他力の仏智は護念の益をもつてたくはへらるる事。 たとひ万行諸善の法財を修したくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず。まつたう弥陀の仏智なるがゆゑに、諸仏護念の益によりて六賊これををかすにあたはざるがゆゑに、出離の資糧となり、報土の正因となるなり、しるべし。」

たとひ万行諸善の法財を修したくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ハッキリされてますね。

そもそもお金は貨幣価値であり、通貨発行権のある中央銀行の市場の評価であって、お金そのものは鉱物であり紙とインクであります。それが人々が価値あるものとして物々交換とかわり貨幣社会となったわけです。今は仮想通貨やポイントも出てきて現金以外も株価などで持てるものとそうでないものに分かれてきているようです。

その市場であり人間が機械に刷らせたもので後生助かるとか人類救済に直結させるとすぐバレるので、間に何枚もクッションや論理の飛躍や詭弁や論点ずらしで金集めや人集めの功徳を積む、善を積むと思わせていくのを教義に組み込む教団は後を絶ちません。

浄土と成仏とは何か、迷いと悟りとは何か。執着と無我は何か。基本を押さえておかないと騙されます。自分にも他人にも。

こういうことで江戸時代の浄土真宗の方々は余乗をしてから宗乗をしたそうです。

いまでは通仏教の知識を振り回してお布施は三輪空寂というものもいますが、そもそも布施波羅蜜です。波羅蜜とはパーラミータというそうで、此岸から彼岸に渡る、この世から後の世、この穢土から浄土へ渡ること、すなわち悟りと修行です。ですので布施にあたっては三輪清浄が言われるのです。

なぜでしょうか。

汚い手段で汚い相手に汚い目的をしていて、きれいな言葉できれいな所作で綺麗な映像だと満足でしょうか。たいていその教祖やら幹部やらの実生活に密着して過去も裏まで知るといいでしょう。

面白いもので伊藤康善先生はかつて大本教の出口王仁三郎の側近の岡田茂吉?に可愛がられたそうで、裏も表も教えてもらったそうです。もし教祖が道徳的だったら日本中がどえらいことになっていただろう、とのことでした。

多くの人が欲するのは感動であって正論や正しい教えに興味がないのかもしれません。感動が大いに信仰の邪魔になってきたとも伊藤康善先生は仰ったそうです。

厭離穢土欣求浄土の浄土教にも関わらず、穢土たる我が身の勝他、名聞、利養に心奪われて50年ないし100年を栄耀栄華で暮らしてしまうことの多いことは96歳の人が、あっという間でした、と一言でした。ご文章の前置きでのお話の通りです。法然聖人も同じくおっしゃいます。

また『和語灯録』『御一代記聞書集成』『西方指南抄』『親鸞聖人御消息』を読ませていただこうと思いつつ、信心獲得者に無我の念仏者に会い尋ねていきたいです。

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