絶対的幸福と相対的幸福と諸行無常 4
諸行無常 諸法無我 涅槃寂静
先の『浄土真宗聖典』を検索し「幸」は八つほど、「福」は百八つほど当たりました。
あまり重要じゃなさそうなのに戦慄します。使われ方は幸せはいいご縁で、というくらいでしょうか。福の方は重要な語句、「行福、戒福、世福」という言葉、大乗の善、小乗(そのままにしています)の善、世俗の善といわれるものの三福、福田、福徳、罪福、禍福、福祐、福報、などなど。
あまりない感じですが「不幸」は補註にあるくらいで本文には全くありません。
苦を抜き楽を与えるのが慈悲と習いますので幸せにしてみせるとか仏様や菩薩方はいいでしょうが、煩悩具足の凡夫に幸せになれますよ、というのは煩悩具足の幸せなのかもしれません。
梯實圓先生のCDでお経に、稲が取れると籾殻が取れる、と言われ籾殻は幸せもついてくるというようなことでした。
これを絶対的幸福やら相対的幸福と混ぜると、人間の欲心に付け込むような気がします。
『浄土三部経』の訳では浄土を幸あるところと言われています。また阿部信機先生のYouTubeで、絶対と言えば仏様の境涯であるから凡夫になることはこの世でなく後生であり浄土でのこと、とあったのが少し心地よく胸のわだかまりが溶けるようです。
三福や福徳蔵は第十九願で説明されるので、専修念仏ではないこと明白ですが、そこに至らないという人や、そこに至るにはという人がいます。そういう人は三福、世福、戒福、行福を行っているか、見たことありません。
親鸞聖人も三福を勧める御消息は無く、世の善を阿弥陀仏の浄土へ生まれるために回向せよとか、救われるところまで自力一杯頑張れとかはありません。
一応浄土真宗において簡単に書かせてもらいました。
次には、小さな頭で考え、しばらく疑問をいたし考察をしてみます。