教示
親鸞聖人はたまたま行信を聞かれ疑いなく阿弥陀仏より浄土往生をいただかれたら遠く宿縁をよろこべ、と仰られました。
この世、およそ鎌倉時代や室町時代より物も思想も食事も文化も豊潤のようです。
見たくはありませんが、昔の人は動物が絞められ調理準備されるのも、老体が亡くなっていくのも直に見えたそうです。
もう無常観も罪悪観も、無常感罪悪感はあっても余裕もないほど忙しい社会人だらけで、学生の時のように遊んでて暇だということがなくなったようで、現実を直視する機会も減ってきた気がします。
幼少期や学生の時はなんで宿題やテストがあるんだろうと思っていましたし今でも嫌ですが、なかなか出ては追い詰められ出てはやっての年月を過ごしています。
全てよかれ苦しみは嫌だと頑張りますが、これらは臨終の一念までとどまることも消えることもないと親鸞聖人はねたみそねみ止むことないと仰られました。
念仏往生はどのような生まれでもどのような生き方でもどのような死に方でも阿弥陀仏から御回向であります。
人生の出口や黄昏時に気づかれてお念仏に惹かれるのは阿弥陀仏が清浄で願い止むことがないからです。
競争も小さい時は簡単です。人類は三十億人と言われていた時代もあったようですが気づいたら八十億人です。動植物をそれだけ食べていき家具や道具は製造され販売され消費されていきます。食物連鎖にしては偏りすぎでしょう。
なにも解決せずなにもかも置いて何が一緒に後生へ行くのか、このことを思うとき宗教は自己を問われつつ救済はいつも呼びかけていたことに気付かされ、信じ受けたときから心開かれ答えも用意され教えられていくことをいただいていきます。
御教えをいただく時間は意外と短い。煩悩燃え盛る今も過ぎつつ浄土往生即成仏をいただいていれば臨終来迎を期待する必要もなく、後生助かりたいという想いも後生助けてくださいという祈念も捨てられる。
苦しみは多種多様に楽しみも多種多様にありますが末通る願いと光は阿弥陀仏からの御回向であります。
それは四五寸ほどと感じるようですが消えません。消せません。本来なら清らかなものの場所である浄土に呼ばれている。