御文章 掟

牛盗み人と言われるとも後世者、善人、仏法者と見えるように振る舞わないように

上記サイト引用
『涅槃経』巻三長寿品に、仏滅後、外道が仏説を剽窃(ひょうせつ→他人の説を自分の者として盗用すること)することを、「盗人、牛を掠(かす)むるが如し」と譬えられて、天台宗では外道が仏法を掠め取ることを、「牛盗人」と譬えていたようであります。

牛盗み人といわれたとしても後世者振ることは控えるべきであるということ、当時も今も仏教は私こそ知っていると振る舞い知識や教学マウントを取ったり、聞法しなくなったり教団を辞める人を敗残者呼ばわりする者がいます。

非常に残念ですが他力回向のお聴聞お念仏の法門であることを忘れ、人の評価でもって知恵や才能、学問を誇り、他者をこなし貶めるのは往々にして発生しうるのでしょう。

仕事をして、上司に気に入られ、業績を上げれば組織から評価され、給与も上がる可能性が出ます。地位も名誉も得たら他者より偉くなり、積み上げた業績と信頼と地位と名誉と財産により生きやすく死ににくくなります。

その癖と言いましょうか、習慣や執着の者柄そのものの反省も自己が生き延び繁栄したい欲望を根拠に生き続けることで、自分はしっかりやっていると思えるのは生きている間だけでありましょう。

死んだあとも生きている間の基準や規則で行こうとしても無理があるように思います。

上記リンク先の牛盗み人、とは教義を掠め取り元を貶める、というものを言っていたそうです。ままあることだとおもいます。涅槃経にあるそうです。

農耕において牛は大切な労働の原動力であり人が生活するのに、人の手でするのと牛に依ってするのとでは段違いでしょう。さらに考えられるのはインドでは牛は神聖な生き物であるそうなので、牛を盗むのは神聖なものを盗むことであり、他者を生きられなくするものである、恩知らずであり他者を滅ぼすことかもしれません。

後世者ぶるというのは、もはやこの世のことは汚く自分たちは尊いものだと尊大な態度でいることかもしれません。学んでいることが尊くても他人を馬鹿にして陰で笑ったり複数で嘲笑うことや陰口にパワハラやセクハラをして鈍感なものも含まれる気がします。

教義は紡いでくださった方々がおられるおかげであります。お念仏の声を聞いたのもお念仏を称えておられる声によったのです。他力信心は阿弥陀様の独擅場であり他力であり自力は一つもこれっぽっちも後生に役に立たないながらご本願をお聞かせに預かり疑い晴れたのも阿弥陀様のおかげでありましょう。名号の一人働きであり信心となり称名と活動なさると聞き習います。

自分で助かったかのように、自分はもう済んだから偉くなったかのように、自分の力で聞くところまで進んだかのように言うのは、お聖教もよく読まず、碩学も師匠もろくに尋ねず、お念仏をよくよく申すようにお諭しにも預かっておられないように思われます。それもこれも先人に学び御同行から御注意をいただくのです。

今で言うなら、酪農家ですと牛、ITや投資家ならパソコン、銀行なら金庫、農家なら耕運機やコンバイン、学生なら教科書や定期券、家事なら洗濯機や掃除機や包丁や冷蔵庫、現代人ですと車や携帯でしょうか。

それらが無いと暮らしていけませんし人との付き合いもできませんし、仕事ならクビです。そういった大切なものを盗めというのではありません。逆に盗むべきでないことは明白です。

それらを盗んでいないのに盗んだといわれたとしても後世者ぶるな偉そうに振る舞うな、ということでしょうか。

御教えが大切なのは自分が生きて威張るためではない。後生助かっておくれよ、悟りの道を歩んでおくれ、という仏陀から菩薩方、元祖宗祖様方、高僧方からお伝えくださったものでしょう。本当なら免許皆伝のように高弟のみだったり、本当に伝わった弟子に師が与えるものです。

法然聖人から『選択集』を伝授された喜びは親鸞聖人は『教行信証』に書かれています。

上記サイト引用
『選択本願念仏集』は、禅定博陸 月輪殿兼実・法名円照 の教命に依って撰集せしむるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見る者諭り易し。誠にこれ、希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉りて、その教誨を蒙るの人、千万といえども、親と云い疎と云い、この見写を獲るの徒、はなはだもって難し。しかるに既に製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。仍って悲喜の涙を抑えて由来の縁を註す。(真宗聖典400ページ)


『教行信証』も直筆は坂東本、清書本は本願寺派蔵、書写本は高田派専修寺本。書写の許可というので最近まで直筆は三本と呼ばれてきました。筆跡研究や緻密な研究で直筆は一本と分かったのですが、専修寺本は親鸞聖人の筆跡とそっくりなため見分けがつかなかったそうです。それくらい師事するお弟子であったということでしょう。誰彼構わず書写が許されたわけではありませんでした。

浄土真宗において信心決定とはこの世ただいま後生助けるご本願により後生助け給えと憑むということと聞き習います。如来聖人のおかげで現当二益、現生正定聚、平生業成の御教えと聞き習います。

わざわざ人に見えるように聞こえるように振る舞って、一人いるとき、果ては年をとって他者から見放されていく老人になって何があるのでしょう。

50年ないし100年の栄華栄耀を求めるよりも未来永劫の楽果を求めよと御文章にある通りです。人に言いながら自らは誤っているかどうか、心内にあれば外に現れる、言動に振る舞いに出るのでしょう。何十年か後には誤魔化しきれません。50からは誤魔化しが効きません、とよく言われ聞きますが、人間ですね。

他者を馬鹿にし、仏教書で自分やよし他者わろしと続けていく先はどんなところでどのような人が出来上がるでしょう。仏事ができるとか読経できるのは結構ですがなぜ一緒にお聴聞しないのでしょう。

なぜお金を積まないと助かるところまで行けないように設定するのでしょうか。なぜ仏教書を一緒に端から端まで読まない読ませないのでしょうか。なぜお聖教を断章主義(取義)して平気なのでしょうか。なぜ陰で馬鹿にして悪口言って評判をわざと落として平気なのでしょうか。なぜ反抗できない中で罵詈雑言罵倒暴言暴力をして平気なのでしょうか。

お釈迦様の前でもそのようになさるのでしょうか??

「正信偈」に二尊七高僧を詠まれお聖教に親しませていただき、お念仏お聴聞し、信心の沙汰のご縁、友同行との交流は決して自力ではありません。阿弥陀様の御心をお聞かせいただきつつ、本当に聞いているかとみんなで聞き合いながら、どうしていくのかは問われ続けるのでしょう。

私個人では威張ったりみんなに褒められて、いい地位について、いいお給料もらって、いい生活がしたい、美味しいもの、いい服いい時計いい車、煩悩で求めるのを止められません。多くの御縁によって聞かせていただき分からないままお念仏するしかありません。私に信心無くとも邪なところや無信心でいい既に救われている救われるというところは信仰しません。生活は生活、後生の御縁はお聴聞お念仏の場といただきたく思います。

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