三つの髻 名聞 尊厳 プライド リスペクト
名聞、名誉欲という三大煩悩のうち貪欲の五欲の一角です。名を馳せている人に嫉妬したり、成功者を妬んだりするのもこの心でしょう。
妬まれたり嫉妬されたりしなくとも、いじめの対象になったりするときに恨みで心で殺したり、潰すことで自己を大きく見せたいという加害者の心もこれかもしれません。
そうでなくとも親子間で血を分けた兄弟でも喧嘩で馬鹿にしたり馬鹿にされてカッとなって手が出たりするのも名誉欲かと思います。
いい時計をつけて見せびらかしたり、テストの点数でマウントをとったり、ふて腐ったり、自分はダメなんだと他者のレッテルに縛られたり、恋人や夫婦なのに貶めたりしてしまうとき、自分や相手を思いやる心より何かを優先してしまっているでしょう。
自分自身だけでなく、学歴を誇り、民族を誇り、地域や生まれを誇り、所属や会社や業績を誇り、よそ様に顔向けできないとか、親戚の前に出せないとか、形のないものまで関連して威張ったり、他者を貶めたりします。
しかし、このプライドで楽しくもやりがいも温かさも感じたりもします。あなたの尊厳を大切にします、平等です、報酬は仕事に応じてきっちり出ます、成果に応じて昇給があります、賞を取りました、登壇してください、多くの人があなたを讃えています、映画のクライマックスでは感動です。棺を蓋いて事定まる、人の評価は死ぬまで定まらない、と言いますが、それでも名を馳せてみたいものです。
正覚大音 響流十方
私の名誉が広まってほしいのか、それとも私をして納めとって捨てず、浄土へ生まれられないはずない者が南無阿弥陀仏により浄土へ生まれさせられる、その名を聞き名を讃え名を説き広めるか。
煩悩を消さずして涅槃分をいただくことが決められ往生が一定とさだめられ、私をしてお助けが治められ定められることの讃嘆でありますので、気をつけたいことです。
ややもすれば、知識が増えれば偉くなった気になってしまいます。浄土を作らず願わず、浄土に生まれさせられる能力もない者を、浄土に生まれさせ成仏させる南無阿弥陀仏をお聞きしながら、そのことを別の目的に用いようとする雑修とも関係してきます。疑いあって雑修なのか、救われたのに自分可愛さで爆発したり教えさえ知ったかぶりしたり大きく見せたくなったり、慈悲も智慧もない有様は変わらないですが、お聖教や御同行や御自身を導いてくれる善知識方に訪ねましょう。
アイデンティティを確立し偉くなるために一生懸命勉強しましょう、ということを宗教でしていこうと思う時もありますが、お互いに凡夫であり救われるべき者でありながら、自分の願いでない仏願を自己同一化し、褒められては喜び貶されては相手を否定する、よくある感情に任せた宗教家が出来上がりそうです。
仏願にたちかえる、聴聞にしても何をどう聞くのかは大切で、信後の聴聞とも言われますので、信前であればなおさら大事なことと思います。