人の価値 人生の意味と目的

うまくいく人生にうまくいかないと思うとき様々です。平和でお金の心配もなく人との交流もあり家庭平穏で健康に仕事も趣味も充実して過ごせたら幸せを感じます。

仏教を聞き求めるのも仕事や家庭を鑑みるのも、苦しみを厭い楽を求めるからだと思っています。幼稚園や小学校の頃を徐々に忘れていっていますが、大人になれば色々なことが分かって自由に世界を飛び回れると思っていました。

しかし現実は厳しく、仕事をしていて、自分でやったのだという思いと、物や人が居なければ一人で何ができるのだろうと思いつつ、実力や経験によって過ごせうるか出来ないか分かれてくると感じます。

一人で何でもやるという自己の才能と環境のみで生きるには年を取ったのと、経験不足での失敗や、器量や人格の狭さによって失ってからの後悔と涙で己の中の力ある自惚れと自己顕示欲が大人しい間だけ学んでいる気もします。

人の価値って何だろうか。

他者評価により仕事ももらえお金で過ごせるので学歴と職歴とか資格や人脈が重要だと、教科書で学べない何かを人との間で知らされてきたように思います。

自分の価値、他人の価値、社会の価値、社会からの価値、これら自分の価値が高ければ仕事が与えられ、低ければ仕事も人も離れるのではないかと、心のなかで若干の冷や汗とともに過ごしています。

一日過ごすことができたのはなんだろうか。ご飯を食べられた、仕事のミスがなかった、他人との衝突がなかった、趣味も家に帰って少しした、お風呂に入った、布団でゆっくりできた、などなどあるかもしれない。

ここまで人間です。

ではお釈迦様や阿弥陀様は何と仰り何を願っておられるだろうか。

人の価値、自分の価値、それはいつどのように発生しいつどのように滅するのか。おそらく何かと関係したときに発生し何かと別れるときに変化するか滅するのではないでしょうか。

いきなり無理やり感がある気もしますが自分だけでは仏教ではとかお釈迦様や阿弥陀様のことはさっぱり出てきませんでした。無理やりのようでなぜ言葉が出るのか、教えてもらったからであり、先人が歩み、私のところへ来て教え手を差し伸べ、一緒に過ごしてくれたから思い出せるのではないかと思いました。

人生をどう歩んでいったらいいのか、何の意味があるのか、果して目的はあるのだろうか、そう考え悩める時間はとても大切だと思います。ただ漫然と過ごすより一生懸命生きたいけれども、ただ何となく満足しきれない満たしきれない感、どうしても手に入らず悔しさと妬みと憎しみで過ごすより改めて明るく楽しみの人生を過ごしたいと思っています。

これで終われば何と楽で円満そうなテレビやラジオや世間の言う幸せな人生でしょうか。

教えの大切さ、礼拝や称名、御本尊や聞法のご回向を被ること、自力ではない。

世間虚仮 唯仏是真

自身虚仮 念仏是真 と言えるかもしれません。

教えてもらう機会が無かったら思うことも経験したうえでも考えることも悩むことも教わることもありませんでした。教えて貰う人が、保育園、幼稚園、小学校、習い事、中学校、高校、塾や予備校、大学、そういった場で先生と呼ばれる方々のおかげでどう世の中が成り立ってどうしたら世の中渡って行けるか、その基礎学問を教えてもらっていたのかと、社会人になって勉強不足を痛感しながら思うのでしょう。

宗教がなくても過ごせるから老人に至るまでお寺に通いません。お仏壇も無く、お墓参りもデジタルで良いのではないかと世の中で流れつつあるようです。時代の趨勢でしょうか、それとも年をいつの間にか取っていて、浦島太郎のように世の中に置いてけぼりにされているのでしょうか。

イスラム教、キリスト教、ユダヤ教、これらは人間の煩悩の域を出ません。

仏法は無我にてそうろう。

そう、無我でないから迷い苦しむのです。これは自分ではわかりません。一日過ごして出てきたのは上手く過ごせたかたどうか苦しみより楽しみのほうが多かったかどうか、他人から悪く言われなかったかどうか、何も自分から念仏も礼拝も御本尊を見ることもお聖教を開くことも、悟ることも無我も煩悩を滅することもありませんでした。

はい、人生終わりです。極端かもしれませんので言い直しますと、一日終わりです。一日、一日と過ぎ一年が終わろうとしています。

世間虚仮と言いきれもしない、唯仏是真は全く自分の中から出てこない今日まででした。では今後自分の中にあるだろうか、出てくるだろうか。

出てこない、ない場合どうしたらいいだろうか。教えてもらうしかないのではないでしょうか。

自分の価値や意味や目的はもうすでに一日一年が過ぎました。死ぬまでに成すべきこと頂くべきことは何か。自分でいいとか人間社会で幸せだったらいいじゃないか、私はそう思ってしまいます。

それでも今日、お念仏の先輩、御同行からお借りした増井悟郎先生のCDの声が耳に残りリフレインします。それでいいのか?

自分の中をどれだけ探してもそれでいいのじゃ、不足じゃ不満じゃとしかありません。負のスパイラルを生み出すのは自分自身、阿弥陀様のご本願は私ではないのに教えてもらいお念仏しご本願をお聞かせいただき、何が問題で何が解決か、煩悩無明とご本願への疑惑が問題で涅槃に至らしむご本願とお念仏が任せよの声であり今ここで聞き開かせてもらうことが人生の解決であり死の解決であると教わりお聞かせいただきます。

何もかも忘れていきます。聞いた知った覚えたで行けぬ後生、法と雨垂れの音は出て聞け、念仏者の声に引かれてお浄土へおまいりしにいきます。

価値も意味も目的も自分で作ろうが他者に操られようが全部お浄土参りにいらない。生きて死ぬまで有用でしょうし残された家族には財産でしょうが、いざお浄土、ご本願をお聞きするにあたっては今ご本願をお聞きする以外ありません。伊藤康善先生は、信心獲得者は浄土往生即成仏の人生の大目的を得ると言われました。

歎異抄で、善も欲しからず悪も妨げなし、というのは今呼ばれているということでしょう。

阿弥陀様のご本願をお聞きし、疑いなくお浄土へ生まれさせていただける、煩悩から解放され執着から離れ仏様と成らせていただき、穢土へ戻り縁ある方のところへ飛んでいき、仏様の働きをさせていただくと教わります。

全く自分の価値意味目的も自己の解決ではなく自己増殖だと思います。自己弁護、承認欲求、自己保身、それらが姿形を変え、日々悩ませ、日々楽しませる、価値、いみ、目的なのかもしれません。これらを失っては生きていけませんしやる気も自信も失い、自分だけでなく家族や親族、引いては家庭だけではなく地域国、海外ですとその国その人種の尊厳、リスペクトまで失いかねません。争いも回避だけでなく時として断固として争い戦わなくては食われるだけです。

善も欲しからず悪も妨げなし、とはお浄土参りにご本願以外一切いらずお念仏もうすばかりであるということで、日々の生活はその国、その地域、その会社、その一族、その家庭はそれぞれの善悪道理はそれぞれでしていくママであるということでしょう。

昨今政治もきな臭く、治安もどうなっていくのわかりません。せめて自分の周りは社会人として大人として一個の人間として責務を果たしつつ、後生の一大事をお聞きする人生でありたいです。

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