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6◉戦後71年の空を仰ぐ

2016/8/21 執筆に加筆。
写真★松山空港近く、数年前の掩体壕。いま現在、手前の水田は宅地となり、こんな風には見えなくなった。

わたしの母の郷里は、松山空港の方面で、いまもそこには【掩体壕】(えんたいごう)が3つ、かろうじて残る。
巨大なカマボコ状で、航空機をすっぽり格納する。紫電改や彩雲も、その中にあったのだろう。
わたしが小さい頃は、田園風景に置き忘れたような掩体壕を遠望できたのだが、いまは宅地のなかに埋まり、事務所、物置、駐車場スペースなど平和に利用されているのも戦後71年の年月であろう。

伯父さんから
「この家の庭にも防空壕を掘ってあって、グラマンの機銃掃射のときは穴の中に隠れたが、弾丸が突き抜けてきて危なかった」

という話を、いまから22年前、戦後49年の夏に聞く。
小さい頃、いとこたちとよく遊んだ庭に、防空壕があったとは、にわかに信じられなかったが、松山空港の前身は、海軍の飛行場であり、戦争末期、紫電改を集中配備して編成された第343航空隊の基地もあった。

なにより地図を見ると掩体壕は、飛行場の東南一帯、河川の方までオートキャンプ場のように点在、広がっており、これは母の実家あたり(東垣生)も標的になるわけだ。

その頃、わたしの母は二つか三つ、防空壕の中に逃げ込んだはず。いまちょうど、わたしの長女が同じくらいの年で、機銃掃射があげる土煙に逃げまどう子供の映像が、二重写しに浮かんできてしようがない。

戦後49年=1994年の夏に、仲間たちと【満洲】を舞台にした芝居を作った。
【あらすじ】満洲を訪れた慰問劇団と清朝皇帝の縁戚、関東軍の諜報部と抗日勢力が、虚々実々の中、だましあいをするというコメディー(だったはず)。
テーマに興味を持ってもらえたのか、伯母さんが劇場に足を運んでくれた。
「よかったよ!」と幕引き後、駆け寄ってくれたが、その先の感想は聞けず終いのままである。

夏休みのたびに、よく訪れた母の実家だが、松山空港の拡張で、伯父さん伯母さんが引き継いだ懐かしい土地建物も移転を余儀なくされ、小さいころ見慣れた周辺はすでに民家の数は減り、ずいぶん見通しがよくなってしまった。

戦後も71年、変わるものは容赦なく変わるけれど、変えてならない【平和な空】
グラマンと空中戦を交えた紫電改や彩雲が飛び立った松山の空を、71年後のいま、銀色の翼を広げた旅客機が、ゆっくりと旋回、滑空していく。

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ジオラマ。掩体壕の紫電改。手前は隊長機
黄色のストライプが目印 ​

画像2

1943年の松山南西部の地図。
滑走路の目の前は瀬戸内海
□印は掩体壕。オートキャンプ場みたい。
河岸まで広がっている

つづく〜7◉最後の紫電改パイロット


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