【うん】という発話の淡い〜アストリッドを演じる声
石山くんと私の【バディー】で解決した
「幻想交響曲」事件・・・
(↑こう書くと、かっこいいな。まあ、事実だし。石山くん=高校からの友人)
その探求の過程で、疑問氷解の裏付けを与えてくれた、ブロガー氏の記事(ブーレーズ逝去)・・・ほかにも、興味深い内容が書かれている中、お!これは(バッハを愛する自閉症・・・)・・・と、わたしのゴーストが「見ておきなさいね」と囁いた、フランスのテレビドラマ【アストリッドとラファエル】
テレビドラマ・・・見ずして10何年・・・
(いま、はじめて【あまちゃん】を、見てるのは、例外中の例外で〜)
現在・・・【アストリッドとラファエル】の第2シーズンが、NHKで放送中(毎週日曜)らしいのだが、まずは、第1シーズン、最初の第1話を見てみようと、動画配信に登録してみると(ここは、無料お試し・・・ではなく)
これが、むちゃくちゃ、面白い!
主人公、アストリッドは、自閉スペクトラム症で・・・パリの犯罪資料局に勤める文書係。ずぬけた知識と論理的な思考特性をもちいて、犯罪現象を分析(Bleuの服の人。青は自閉症の啓発カラーですね)
(ルービックキューブなどの立体パズルや、バッハ【フーガの技法】を愛するなど、人物造形の小技もきいてる。そのプロトタイプは、手塚治虫の創造する鳥人か。文末にイメージ掲載・・・そっくり!)
もうひとりの主人公、ラファエルは、パリ警察の警視。少々がさつだけど、経験知と直観、行動力で、難事件を捜査。猪突猛進、おおらかな性格も、見ようによれば、少しだけADHDっぽい?(Orangeの服の人)
まさに、発達の凹凸ある、ふたりが【バディー】となって、不可解な事件に挑む、というもの。
以前【シャーロック】というヒット作ありましたが、それに類する感じで、こちらは、女性ふたり、ですね。要は「ホームズ〜ワトソンもの」だ。
その、イギリスのテレビドラマでも、主人公のシャーロックは、高機能社会不適合者という設定であったし、ワトソンも、こころの内に、根本的な癒しを必要としていた。本邦の島田荘司「御手洗〜石岡シリーズ」も、そうであるように、探偵ロマンというジャンルで、こうした【バディー】の相互関係は、より広く位置づければ「友情によるビルドゥングスロマン」なわけだ。
さて、NHKの放送は、もちろん、吹き替えである。
一方、第1シーズンを追っかけるため、動画配信に登録、そこでは、吹き替え版と、字幕版と、両方を見ることができる。
最初、字幕版を見た。ところが、映画のそれとは違って、字幕の画面への焼き付けが粗悪で、たいへんに見にくい。よって、吹き替えのほうが、ストレスなく、物語を受け取れるのだが、主人公アストリッドの声を担当する、俳優さんの演技を、どう評価するか?・・・
ほかの登場人物たちの声は、いわゆる海外ドラマの吹き替えのとおり、コミュニケーションのボールは、いかにも当意即妙・・・軽やかに弾むように、やりとりされる。
その中に・・・だ。
自閉スペクトラムという個性の主人公が現れるとき・・・会話はぎくしゃく、その場の空気は、少々、不穏になるわけだが、さて、その中心に位置する主人公アストリッドを、日本語の吹き替え版において、どのような演出と、それに応じる俳優の声の演技で、表現するか。
貫地谷しほり、という俳優が、その難しい注文に挑むところ、正直、最初は違和感があった。
なので、字幕版に戻ってみたり、何度か往復・・・でも、やはり字幕は見づらく、とても慣れたものではない・・・そこで、もう一度、吹き替え版を視聴してみると・・・そう、こちらは、慣れるのだ。
違和感に、文字とおり慣れていく・・・その過程で、俳優の声の演技とは、実は「特異な普通」なだけであって、それを所与として受容する側のほうにおいて、主人公アストリッドの個性として認識、学習していくのだ。そう、ごく当たり前に。「普通」に、そういうものとして。
字幕版だと、フランス語の音は、聞こえてきても、さすがに、ネイティブ・コミュニケーションに宿る質感、そのニュアンスまでは、捉えづらい。その点、吹き替え版の演出と、俳優による演技は、主人公アストリッドの声、その微妙な息づかいにおいて、自閉スペクトラムという個性のありようと、この「日本社会」での位置を、いきおい、われらの目の前に差し出し、問いかけるものとなる。
フランスのドラマであるが、吹き替え版が、この列島の公共放送で流れ、そこで、ふたとおりの日本語(つまり、自閉的言語と「標準語」と)が使われる限りにおいて、彼我の違いなく、むしろ、当初、受け取っていた、声の演技の違和感にこそ、個々の特性と、その社会での包摂の関係のありようが、より明確に、あぶりだされてくるのだ。
そうしたとき、字幕版のフランス語を聞いても、よく分からないのだが、吹き替え版で、耳につき、徐々に浮かびあがってくるのが、主人公アストリッドの「うなずき」(もしくは「あいづち」)の声である。
それは、「うん」とでも記述するか、あるいは「un」か、「n」か・・・
コミュニケーションで、ひんぱんに使われる他者への「うなずき」・・・それは意思疎通を円滑に、凹凸なく、スムースに流れさせるが、人々の「普通」は、それを「あいづち」としても、無意識に処理する。
ところが、主人公アストリッドを演じる、貫地谷しほり、の声は、そんな単純な表現ではない。
「うなづき」と「あいづち」の淡い、その間にあるような【うん】を、他者と自分の間に、そっと置いていく。(渚において洗われ、顕れる・・・貝殻の片方のような)
なんとも、いわく言いがたいのだが、自他関係の「スペクトラム」を、懐疑のうちに、さしあたり確認するような【うん】なのである。
(アストリッド=貫地谷しほり、の声には【うん】のほかに【ぁ】という発語もあり、興味深いのですが、この阿吽についての考察は、空海の実践的言語哲学の側面から、また別稿にて〜)
人々の「普通」は、イエスかノーか、どちらかといえば、否定を前提にしたコミュニケーションが、現代社会では、幅をきかしている。ところが、このドラマの主人公アストリッド・・・の、日本語版の声【うん】は、肯定「ウィ」と否定「ノン」の、その前提・・・滞りなくイエスとノーを操ることのできる多数の人々が寄って立つ位置・・・が、どうにも気になってしかたない、そんなところから発せられている、うん。
他者を歓待するとき、大前提として肯定を持ち出すが、いや、自閉的傾向のある人々の「普通」にとって、その肯定は、あっけらかんと、暴力的である。歓待の精神は、なにも日向性に限らず、隠花植物のようにも、芽を伸ばそうとする。そういう【うん】・・・
主人公アストリッドを演じる、貫地谷しほり、の声・・・【うん】という、淡いを聞きとる向こうに、この社会を硬直させている人々の「普通」を見つめ直すキッカケがあるのかも知れません、うん・・・そんな、アストリッドとラファエルの、ボコデコなバディーの友情は、必見です。うん。
狭き門は、友愛において、開かれる。
自律を検見(閲み)するのは、相身互い。