13) 熊本「天草」〜高田満・機長の故郷を訪ねる
【彩雲】という偵察機に共に乗り込み、1945年3月19日、愛媛と高知の県境の空で戦死した3人の若者(数字は享年)
・高田満(機 長、熊本県、26)
・遠藤稔(操縦士、長野県、22)
・影浦博(通信士、愛媛県、21)
最初に、機長の高田満さん、どのような青春をおくった方なのか・・・2022年10月、天草の倉岳町に、遺族を訪ねました。
松山からフェリーで小倉へ。九州を一路、南にバイクを走らせる。天草五橋をぬけると、山頂からの絶景が、素晴らしい「倉岳」ふもとの旧家に到着。
(標高682mの倉岳は、天草諸島の最高峰、その山頂には倉岳神社があり、当日は曇り空だったが、それでも見事な絶景)
高田賢治さんは、現在90歳。機長・高田満さんの従弟にあたる。
1945年3月半ば、休暇で一時帰郷した満さんにお供して、当時12歳の賢治少年は、先祖の墓参りや、満さんが世話になった小学校の校長先生への挨拶など、思い出の残る町中を、一緒にめぐったそう。
「賢坊(けんぼう)、あとは頼んだよ」と、満兄(みつるあに)から、道々、あらたまって声をかけられ、いつもと少し様子が違ってみえた、という。
・・・こんな具合に、興味深い話をさまざま伺うと、そのうち、まとめてテキスト化しますが、ひとつ【時計】に関する逸話を紹介。
この時計・・・偵察機【彩雲】の墜落地点の杉の木に引っかかっていたそうで、3人のうち、だれのものかは、分からないが、遺族に伝わるということは、高田機長の持ちもの、だったのでしょう。
ロンジンは、スイスのメーカー。文字盤にUSAとあり、アメリカ市場向けのモデルだと、分かります。ここで、疑問なのは、帝国軍人が、敵国USAの時計を使うのだろうか?
そこで、仮説・・・
①高田機長は、熊本の師範学校を出ており、教員志望だったよう。才気活発、優秀な青年で、戦争が終わったら、もっと広い世界を見てみたい、と語っていた。たくさん残された写真には、そんな人柄も伺えて(瞳の美しい美男子!)・・・もしかしたら、平和主義、あるいは反骨精神から、USAの時計を身につけていたのではないか?
②飛行機乗りは、秒単位で、正確な時間表示が要求されるから、敵国製品だろうが何だろうが、精巧な時計が必要だった?・・・なんて事情が海軍にあるのかも。知らんけど。
③墜落時、アメリカの機体に体当たりした、という風説があり(わたし、この話しは、眉唾だと考えてるのですが)、もしそれが本当なら、アメリカ兵の腕時計なのか?
・・・うーむ。③を事実と仮定しても、それが高田家に伝わるはずないだろうし、もしや②かな、あるいは、①か?
杉の枝に引っかかった時計は、現地村民たちによって回収され、墜落の衝撃か、持ち主のからだから引き剥がされてなお、時を刻んでいた。
高田さんのところに引き取られ、ときおりネジを回し、大切にされていた時計ですが、先年、ネジが切れてしまい、修理も及ばす、いまは静かに、その時を止めています。
従弟の高田賢治さんの談
「満兄が死んで後、平和が訪れたが、いままた、新たな脅威が取り沙汰される。絶対によくないよ、戦争は」
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