見出し画像

9◉帰郷は自転車に乗って

2017/8/15 執筆に加筆。

去年8月、当時在住していた西宮と郷里の松山を【紫電改】という戦闘機でつなぐ内容のレポートをスタートしたら、多くの方に関心を寄せてもらい、いろいろ情報いただきました。(多謝です!)

 今年の春、西宮を離れる直前に【紫電改】の元パイロットから話を聞く場に同席させてもらうなど、とっても得がたい経験もできました。
 そんな昨夏の連載から、ちょうど一年・・・

「戦時中、松山にあった航空隊で、偵察機に乗っていた杉野さん、いまもご健在で、戦争経験の語り部もされている。取材に行くんだけど一緒にどう?」

 新聞記者をしている高校からの友人も、わたしのレポートをみてくれていて、8/12の朝刊(写真、本文末)の記事となりました。
http://www.asahi.com/amp/articles/ASK836SR5K83PFIB00Q.html
(登録したら全文読めるみたい)

 昨夏、いろいろ調べていく中で発見したのは、偵察機【彩雲】に搭乗していた影浦博という通信士は、わたしの遠縁(おじいさんのいとこ)にあたり、昭和20年3月19日、愛媛と高知の県境の空で、戦死(21歳)していること。
 「おじいさんのいとこ」というと、ちょっとピントはぼやけますが、たとえば逆に「いとこの孫」って捉えてみると、案外近しく思われ、名誉の戦死という布告・・・そうした「記録」には収まらない、その人の等身大の姿・・・当事者は語れぬが、その隣人たちに残る「記憶」から、その人となりをたどれないか?
 そんな思いがみのり、先日、松山空港の近くに残る「掩体壕:えんたいごう」(写真左。ここに航空機を格納していた)の中で、杉野さんからお話を伺うことができました。

画像1

松山空港のすぐ近く。
松山市南吉田に残る掩体壕(えんたいごう)
現在3つ残るが、この写真のものが
保存されるよう。

◆杉野富也さんは、1925(大正14)年生、現在92歳。昭和18年に土浦航空隊に入隊(予科練の乙種18期)
◆影浦博は、生きていれば93歳。昭和16年に同じく土浦にて入隊(乙種16期)
 杉野さんは、昭和18年公開の戦意高揚映画【決戦の大空へ】(原節子ほか出演)を見て、入隊を決めたそう。
「若い血潮の 予科練の/七つボタンは 桜に錨~」
 映画のテーマソング【若鷲の歌】は、軍歌の中でもよく知られたものだろう。
 ハイティーンのふたりは、航空機乗りになるため、海軍飛行予科練習生(予科練)となる。
 昭和20年、第343海軍航空隊は【紫電改】3編隊と【彩雲】1編隊で、本土防衛、制空権確保のため松山で編成された。ふたりは通信士として【彩雲】に搭乗した同僚であった。

「影浦さんは、どこから手に入れてきたのか自転車に乗ってきてね、休暇があると、実家に帰ってましたよ。伊予市ですから、ここから自転車で一時間くらい。近いもんだって。ぼくらは休みになると道後や町に出るわけですが、影浦さんといえば自転車に乗って帰郷する姿を思い出します」
 
 杉野さんは、福岡・大牟田の出身、土浦で入隊したあと高知の部隊を経て、松山に配属。隊員名簿の出身地をみると、全国各地にちらばる。
 戦後、343航空隊は、敗戦確実の状況下で一矢を報いた精鋭部隊・・・として喧伝された。最新鋭の戦闘機【紫電改】と最速の偵察機【彩雲】を配備し、戦争末期まで生き延びていた腕利きパイロットたちを集めた部隊は、たしかに編成当初の3月19日の空戦などで互角の戦果を収めはしたものの「実際は、寄せ集めの部隊で、若い隊員も多かった。そんなに立派なものではなかった」(紫電改の元パイロット談)という内実であったようだ。

「昭和20年3月19日の早朝、偵察に発進する影浦さん、高田機長、遠藤操縦士たちの【彩雲】を見送りました。そのあと朝飯で生卵を割ったちょうど同じとき、グラマンの攻撃を受けました。機銃掃射をかいくぐって、防空壕に逃げ込みました。いまでも、食べ逃したその日の黄身の色を覚えてますよ」

 杉野さんに偵察機【彩雲】の搭乗員たちの集合写真をみせてもらった。

画像3

中段3列目。辞令を掲げた左から5人目が、
影浦博・上等飛行兵曹
杉野さんの思い出のとおり、丸顔かな

 はじめて目にした写真のなかに、わたしのおじいさんのいとこ=影浦博はいた。写真のなかの青年は、いとこの孫=わたしのまなざしに気づいてくれただろうか?
 彼のすぐ左には、同じ機体に乗って戦死した高田満・機長(熊本県、現在の天草市)がいる。敗戦の8月15日までの間に、偵察機【彩雲】の隊員たち114人のうち34人が戦死した。
 その一人ひとりに、だれにも等しく与えられる時間=人生が時を刻んでいたわけだが、戦争という巨大な暴力は、その人に固有の時間を根こそぎ奪い、死者にしてなお、その人に固有の死を「お国のため」という意味に変換させる。

「当時は、お国のために何もできませんでしたが、いま自分の戦争経験を小学生たちに語ったりしていると、ようやく何かしらためになること、できているかもしれませんね」

 最後にそう語った杉野さん、週2回はゴルフに通い、先日はロングホールでバーディーを出したそう。
 「むしろ、そっちのほうがニュースかも!?」と記者の友人と笑い、驚くくらい、かくしゃくとした92歳の姿に、敗戦から72年・・・当事者たち(その隣人たち)から聴き取る時間はまだまだある、と思いあらたな松山の夏空の下でした。

画像2

2017年8月12日の記事

つづく〜10◉語りを、聞き書く


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?