公園で野良猫を可愛がる高齢女性たちから感じる「身勝手さ」
初めまして、どうぞよろしくお願いします。
ただ、第一回目のnoteなのに、昨日公園を散歩していた時に話しをしようと思っている。
ここの公園、夕方になるととあるおばあちゃんが公園に住み着いている猫にエサをやりに来ている。結構可愛い猫なので私も近くで観たいのだが、公園を1周し30分くらい経ってもまだそこで猫を可愛がっているので、容易に近づけない。
これは、実はこれまで夕方に散歩くると毎回こんな感じなので、この女性は毎日エサをやりに来ているに違いない。
そして、顔見知りの同年齢のおばあちゃま方と猫を囲んでの井戸端会議なんかも始まったりする。
一見するとほのぼのとした景色に見えるが。
ちょっと考えてみると、この景色からみる異常な一面が顔を出してくる。
今日はそんな話し。
私の友人で、猫を飼っている人が数人いる。SNSにも投稿してくれて「可愛いなぁ」なんて思いつつ、時々その猫が病気になったりすると大変だなと思うことがあったり。そしてうちが猫を飼っていない理由もそうのだが、亡くなった時にすごく気持ちが落ち込むのではないか?と考える。それが結構重たそうなので、私は猫を飼わないことにしている。大好きなのだが。
その背景があると考えると、公園に住む猫を、自分の都合がよい時だけ可愛がりにくる行為って実はだいぶ自分勝手ではないのか?猫の糞尿も処理しなくていい。病気なときにも何もしなくていい。そして猫が亡くなった時にも、何もしなくていい。
ある意味猫のサブスクというか、猫生活のよいところ取りをしていると感じるのだ。
そんなに可愛いなら飼えば?とそのおばあちゃん方に言っても、それは嫌だと言われるだろう。
彼女達は、何の責任を取ることもなく、猫を可愛がるだけ可愛がりたいのだ。
そう考えると、猫にエサをやっているおばあちゃんと、それを囲んで井戸端会議をしているおばあちゃんという風景の真の異常さに気づくことが出来る。
責任を放棄した方々の、異常なる身勝手さだ。
公園で野良猫を可愛がる高齢女性たちから感じる「身勝手さ」
さらには、その身勝手さが渦を巻いている景色を、我々は何の疑問を持たずに見ている、ということも同時に異常なことだ。
私の根源には「人々がちゃんと他を思いやって、精神的に豊かになる世の中になれば」という思いが強くある。そう考えると、実は世の中ってより自分ゴト・自分ゴトな世の中になっているのでは?とその逆行に悲観することが多々ある。
今日は以上です。
引き続き、世の中の「ちょっと変なのでは?」にフォーカスを当てていきたいと思う。
読んでくださり、ありがとうございました。