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もし余命が分かっていたら…

もし余命が分かっていたら我々はどのように過ごすだろうか。

現在の日常生活において、交通事故など突然命が奪われる場合を除き、
我々が最期を迎える場所はほとんどの場合病院であろう。

2018年に厚生労働省が発表した人口動態統計月報年計(概数)の概況を見てみると、日本人の死亡原因の第一位は男女ともに「がん」である。(https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai18/index.html

義母が亡くなった年に義父に腫瘍が見つかった。

その時は既に「ステージ4」の状態であった。

余命は宣告されなかったが、義父自身、自分の人生がそう長くはないことを知っていたはずだ。そして昨年の7月義父は逝ってしまった。

義母の三回忌の時に義父は私に「後は頼むな…」と言葉を残していた。

「そんなにすぐなはずないから」と私はその場を笑って誤魔化したが、
義父にしてみれば、自分の命がそう長くはないことに気づいていたのだろう。そして家族に見守られながら義父は逝った。

人が亡くなると、普通は何から何を手につけていいか分からず動揺するものである。

ただでさえ亡くなって悲しいはずなのに「葬儀の手配」というものを残された者はしなければならないのだ。

しかし義父は一冊のノートに、
葬儀の費用からどこに連絡をし、どんな手続きをしなければならないのか事細かに書いて残していた。

我々残された家族はそのノートを見ながら葬儀屋と打ち合わせをし
義父を送り出した。

その葬儀の後嫁の実家に片付けに来た際、私は以下のようにツイートしている。

実は、タンスの中も不要なものは既に捨ててあったり、後に残された者が困らないようにしてくれていた。最後まで本当に几帳面で優しい父だ。最近は「終活」という言葉が存在するが、まさにその通りである。

もし私が余命を宣告されたら、大量にある本とCDを片付けられるのだろうか。「生き方・死に様はこうあるべきだ!」と、義父に教えられている気がした。


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