正義と多様性
最近気付いた事で、やる気が無くて向上心がある人と仕事するのが自分は好きで、自分自身もそうなんだけど、やる気があるヤツと仕事するのは結構しんどい。この「やる気」って何を指しているんだろうか、と考えさせられる機会があった。で、気付いた。
正義感だ。
正義感が強い人と仕事をするのは、結構しんどい。
話を無駄にデカくするけど、「人類最大の武器」は多様性である。昨今、耳障りなほどに言われる多様性と俺が考える多様性は少し異なるかも知れない。「強さ」は時代や環境によって大きく変わる。原始時代には肉体的な強さであったり、棍棒をブンブン振れるのが強さだった。強くなければ食えず、捨て置かれる。しかし、時代が進むにつれて「喧嘩はめっぽう弱いけど刃物で武器作るのがめっちゃ上手いやつ」とかも生かしておく事にした。するとより効率的に獲物を狩る事が出来て、余暇を作れる。その余暇で家や服のクオリティに拘るヤツが出てきたりして人類は豊かになる。料理用の刃物作るヤツが出てきて飯は美味くなる。料理が上手くなり、より効率的に栄養を接種出来るようになり、出産率もあがる。人類という組織がより大きくなる。もちろん人類の定住化も大きく影響しているだろうが、直接は獲物を狩れないヤツを許してきた事は人類に大きな影響を与えている。女性には健康的に子供を産めそうなふくよかさが求められたが、多くの地域でとうにその時代は終わっている。嗜好としてまた同じ見方はあるかも知れないが、妊娠上手そうだから、という理由であることはあまり無いだろう。
ここでとても重要なことは「次の時代の強さは今の我々にはわからない」ということだ。
だから。
そう、つまり、だからこそ「多様性」が重要なのである。
人類という種が生き残るために、今この場でダメそうなヤツも生かすし、今この場の倫理観や常識から外れているヤツも生かす。
昨今のあーだこーだが主張する多様性がなんだかんだ、ふわふわした理由ではなく、人類が生存するための必須条件が他を許容し多様性を認める事である。
多様性が何故重要なのかを語ってくれる人はあまりいない。安心して暮らせる社会を、とか、自分がもし逆の立場になってしまっても生きていける社会を、とか、つまり自分の人生分、もしくはせいぜい子ども分のセーフティを作るために必要な事であると解釈している人も多いだろうと思う。実際にその側面もある。
ただ、あくまで俺の解釈ではあるが、上記の理由で多様性を認めるべきである、という角度は間違っていると俺は思う。現状で困っていない人には全く響かないだろうし。
端的に「多様性は人類最大の武器である」から尊重するべきである。切実に、同じ価値観の人間しかいないのであれば、人類は滅ぶ。何百年かけるかは知らんが、確実に滅ぶ。人類皆YouTuberの世界を想像すると寿司ペロペロしてるやつばっかで誰も寿司握らねぇし魚釣るヤツもいねぇって事になる。
余談だが俺は資本主義をあまり気に入っていない(共産主義も気に入っていないけど)なのだが、それもこの話と重なる。資産の大小が存在としての価値に見えてしまうからだ。
閑話休題。
対して、正義はそれを許さない。
正義には必ず目的がある。自覚しているか言語化出来ているかは分からないが、目的がある。多くは、何かから「我々」を守る為にその何かを排除する。そういう志向性がある。だから多様性とは反発してしまう。
「やる気ある?」とは、つまり「俺の考えた最強の正義、価値観通りに生きれる?」という問いかけでもある。クソ喰らえでございます。
難しいのは、組織を管理するにあたって自分が重要視していることは「価値観の設定と共有」なのだが、それは割と正義側の考え方というか、このチームにおいての正義は何か、という問いを設定する事でもある。各々の価値観で活動するとクオリティが一定にならないからだ。多様的であるべきだと俺は考えているので、価値観の設定はいつも曖昧にしているが大正解とは言えない気がしている。曖昧な設定は多かれ少なかれ混乱を生むから。
そんな感じで、俺は正義を背負ってるヤツとかやる気に満ち溢れているヤツと仕事をするのは苦手だ。それを克服する事が、乗りこなす事が、これから5年くらいの目標である。何故なら正義感の強いやる気のある馬鹿も多様性のひとつだから。
余談だけど、共産党が非合法な国も多い中で自由に活動出来てて議席まで持ってる日本って自由な国だよね。れいわとかも割と共産主義寄りだし。表現の自由強め。