労働は牢獄だ。
しかも実のところかなり歴史が浅い。
最近読んでる本があって、本を読むことが人並み以上に苦手なこともあってちょっとずつしか読めてないのだが、面白い。
暇と退屈の倫理学という本で、哲学をベースにした本でまぁ難しいっちゃ難しいんだが、エキサイティングで面白い。
まだ序盤なんだが、退屈の歴史、起源に迫るために、人はいつ、何故、定住するようになったのか、ということを掘り下げていて。うわ、そこからいくのか、なんて感動している。
不躾にかいつまむが、人類400万年の歴史のうち、定住するようになってから1万年程度しか経っていないそうだ。
現代人の悩みが400万年のうち、たった1万年前から始まった定住を祖に、わずか数100年の、そして自分が生きる100年たらずの浅い歴史に苛まれていると思うと、馬鹿らしくもなる。
かなりアレになって仕事を辞め、また仕事を始め、とりあえず酒を買えるくらいには復活しつつあるわけだが、色々と考え方というか捉え方も変わった気がする。
変わった、というと少し違うか。言語化出来るようになったり、出来ないなら出来ないなりに色や形は分かるようになったり。
あとはなんかシンプルに優しくなった気がする。気がするだけかも知れないけど。
仕事は辞めて良かった。辞めても人生は続くし、続かないのだとしても下らない時間を生きるよりマシだとも思う。
労働は牢獄だ。
価値を理解して貰うのに手っ取り早いという点で言えば、麻薬に近いのかも知れない。
働く事自体は素晴らしい。
素晴らしいのだが、本来は成果物に価値があるかどうかではなく、その成果物を作れるようになったということに価値があるはずだ。本来は。
だから、出来ない人、作れない人、上手くいかない人、というのはその結果で見てしまうけれども、肝心なのは出来ようとすること、作ろうとすること、上手くなろうと思うこと、そちらの方がよっぽど大切だと思う。
強くなろうと思わないと強くはなれない。
自分の定義だが「才能とは努力に対するリターンの割合」だと思っていて。才能は0にはならないけど、努力は0にもなるから「かけても0」になるのであればそれは努力の問題なんだと思う。
そんなこんなで、1D1Tが365曲目。1年を迎えようとしている。
365曲作ったことより、作れる自分が在る事の方が価値があると思う派です。
才能1.0pt×努力1.0ptでも、365日やれば365ptだ。才能が1億あってもやらなければゼロだ。わずかでも良いから、やると良いと思う。