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高杉晋作が挙兵した寺「功山寺」とは

功山寺略年譜(主要のみ記載)

1320年  虚庵玄寂禅師が金山長福寺(臨済宗)を開山
1334年  足利尊氏より小月の地を寺領として、寄進する書を受ける
1557年  大内義長、毛利元就に襲われ、4月4日長福寺で自害、大内氏全滅      
以後、寺は戦乱で荒廃
1602年  初代長府藩主 毛利秀元が長福寺を修復し、父元清の霊を祀り、笑山寺(曹洞宗)と改称
1650年  毛利秀元死亡以後も毛利家の香華寺となり、功山寺と改称
1864年  四カ国連合艦隊来襲にあたり13代藩主、毛利元周は功山寺に陣営を移して指揮
     11月17日より三条実美等五卿が2カ月間書院に潜居
     12月15日に高杉晋作の挙兵
2004年  総門が、国の登録文化財に登録

功山寺パンフレットより

略譜から室町時代から江戸の幕末まで、歴史の要所を得てきた場所であることがわかります。

1557年に自害した大内義長は、室町時代に山口を拠としていた大内氏とは血縁がありません。主君であった大内義隆を攻め滅ぼした陶晴賢が、大友宗麟の弟晴英を大内義長と改名させて大内家の当主にしたのでした。その後、毛利元就が大内義長を攻め、長福寺(のちの功山寺)まで追い詰めて結果として自害した場所でした。

そして、何より有名なのは、高杉晋作の挙兵の場所としてです。
寺内には、凛々しい高杉晋作像があります。
もし功山寺挙兵が失敗していたら、明治維新は数年遅れていただろうといわれているようです。  

高杉晋作が決起した1864年12月15日は、大雪で夜は晴れて月が出ていた。石段も山門も仏殿の屋根も、中天にかかる満月の光を浴びて白一色に輝く中を晋作は愛馬に鞭をあてて時代の夜明けにむかって駆け抜けていった。

功山寺パンフレットより

功山寺は、春は桜、秋は紅葉が美しい場所でもあります。

功山寺と桜
功山寺のしだれ桜


功山寺と紅葉
功山寺の紅葉スポット

春または秋に一度足を運んで、季節とともに歴史を感じてみませんか?


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