アンタッチャブル・ザキヤマの知られたくないかもしれない過去
(サンミュージック岡社長の連載6からアンタッチャブル・山崎に関するお話を読みやすいように切り取りました)
ブッチャーブラザーズが人力舎に入って8年経った1992年のこと。2人は玉川善治社長(当時)から「吉本のようなお笑い学校を作りたい」と持ちかけられた。
数々の人気芸人を輩出することになる「スクールJCA」の始まりだ。
「吉本さんは1982年に大阪でNSCを立ち上げ、一期からダウンタウンが出るなど大成功していました。ただまだ東京校は作ってなかったんですね(1995年に開設)。関東初の芸人学校を開設し、校長にと話をいただいたんですが、まだまだ現役としてやっていきたかったのでお断りし、主任講師を務めることになりました。1期から6期まで見ました」(岡社長)
玉川社長から校長、講師への就任を要請されたことについて、岡社長はこんな見方をしている。
「普段から後輩にアドバイスしている姿を見てくれていたのはあるんでしょうけど、玉川社長は本当に芸人に優しい方でしたから、僕らに安定した“食い扶持”を与えてくれようとした面もあると思うんです」
JCAは1期生から児嶋一哉(アンジャッシュ)、2期生から飯塚悟志(東京03)、渡部建(アンジャッシュ)、ダンディ坂野、ユリオカ超特Q、3期生からアンタッチャブル(柴田英嗣と山崎弘也)、豊本明長(東京03)、4期生から北陽(虻川美穂子と伊藤さおり)、5期生からドランクドラゴン(塚地武雅と鈴木拓)6期から今野浩喜(元キングオブコメディ)などなど、人気芸人を次々と送り出していった。
岡社長によれば、講師をやりながら強烈な印象を受けた生徒が2人いたという。
「こいつは他と違う!と思ったのがザキヤマこと山崎弘也と塚地武雅です。まずザキヤマ、彼はめちゃくちゃまじめだったんです」
なんと、現在のキャラからは想像がつかないが、JCA時代は真面目な生徒だったという。
「僕が担当していたネタ授業は皆勤。多くの生徒が次第に行かなくなる発声練習などの授業もまじめに出席していました。授業中はいつも正面真ん中にいて、前のめりで、食い入るように話を聞いていました」
他の生徒がサボりだすような授業も、真面目に通い続けていた。
授業を受ける態度は真剣そのものだったという
「“学ぼう”という気持ちが溢れ出てたんですよ。しょうもないことを言うと“じー”っと見てるしね。教えながらプレッシャーを感じるぐらいまじめでした(笑)」
今やすっかり騒々しいほどのハイテンション芸が定着しているザキヤマだが、学校時代は全くキャラが違ったのだ。
相方の柴田は?
「授業中は後ろの方でハスに構えていた印象です。今でこそ早口でまくし立てるけど、最初はそこまでの技術はなくて、『僕、大丈夫ですか』と不安そうにしてました」
これまた少し意外な話だ。そして岡社長は柴田のことを”良い例”として若手芸人に話していたという。
「でも光るものはありましたし、彼は努力の人なんです。よく若い子に『最初はダメでも努力すれば』という実例として、柴田がいかに頑張ってきたかを話しました。色々ありましたが、コンビが復活して良かったですよ」