東京芸人の運命を変えたひとり 芸人・リッキーが大手芸能事務所社長になるまで 2
制作志望だった岡社長がなぜ芸人に?
「笑ってる場合ですよ」の「お笑い君こそスターだ!」に出演
上京当時、ぶっちゃあは役者、岡社長は映画制作をしたいという思いがあった。しばらく森田健作の付き人を務めていた2人だったが、「このままでは先が見えない」と付き人もサンミュージックもやめてしまう。しかし目立つ実績がないフリーの2人に仕事は回ってこなかった。
時は1981年、世は漫才ブームにわいていた。テレビではツービートやB&Bが大活躍している。
ぶっちゃあと岡社長は、以前サンミュージックのあるマネージャーが2人の会話を聞いて「芸人やらない?」と声をかけてくれたことを思い出し、芸人として昼のバラエティ番組「笑ってる場合ですよ」(フジテレビ)で行われていたオーディション「お笑い君こそスターだ!」に出演しようと考えた。それがチャンスを掴むきっかけになるかもしれないと期待を込めて応募ハガキを送る。
しかし、そのハガキは大量の一般応募ハガキに埋もれていたのだろう。待てど暮らせど反応はなかった。
そこで先のマネージャーに連絡すると、局に交渉してくれて、すぐに「お笑い君こそスターだ!」への出演が決まった。
さらに5日間勝ち抜いてグランドチャンピオンになる。
この成果を手土産に「芸人」としてサンミュージックに所属することになった。まだ四谷4丁目、新宿通りと外苑西通りの交差点に事務所があった頃だ。
劇作家の故・宮沢章夫さんと試行錯誤 コントを作った若き日々
この時、芸人の道へ進んだことで、後の大御所劇作家と懇意になる。作家活動を始めた頃の宮沢章夫さん(2022年没)である。
シティボーイズらと「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」(1985~89年)を組む4年前の話。宮沢さんは1990年には劇団「遊園地再生事業団」を設立し、近年ではNHK Eテレで放送された「ニッポン戦後サブカルチャー史」の講師を務めていた。
そしてもう一人、当時は「笑点」の構成作家の一人で、後々ウッチャンナンチャンの番組などの作家を務めることになる「竹田くん」も加わって、4人でブッチャーブラザーズのネタ作りをしていた。
「宮沢さんと竹田くんはマネージャー経由で知り合ったんですね。みんな売れてなくて暇だったから、週に2〜3回は“勉強会”と称してサンミュージックの会議室に集まってネタ作りをやってました。ある日、宮沢さんが『多摩美の同級生に竹中って面白いやつがいる。今度呼ぶよ』と連れてきたのが竹中直人です。僕らは“タケチュー”と呼んでました。当時から原田芳雄さんのモノマネをやっていて、新宿のゴールデン街に飲みに行くと、彼はお酒を飲めないのに、原田さんのマネをしている時はウイスキーをロックでグビっといくんです。あれ不思議でしたね〜。しばらくして会ったら『飲めるようになった』と言ってました」
宮沢さんらが書いたネタは、「ザ・テレビ演芸」(テレビ朝日、1981〜91年)の勝ち抜き新人オーディション出演時に披露され、審査員を務めていたコピーライターの糸井重里氏から絶賛された。
ブッチャーブラザーズは3回目の出演でグランドチャンピオンに輝く。またこの番組をきっかけに糸井氏との交流が始まる。(続く)