【短編小説】臨界

 日付を跨いだ、繁華街のある夜。
 彼は夜のアルバイトを終えて、家路に着いていた。
 ほぉ、と白い息がでる。今日は寒い。
 今日一日中働き詰めだったが、いまいち何かを遂行した実感が湧かない。形容するならば、そうするために生まれてきたような。
「──帰りたくねえな」
 大きいため息を漏らす。あと五時間後には大学へ行くために電車に乗らねばならない。
 なんのために生きているんだろう、とふと思う時がある。変わらない日常。自らの不出来を苛む毎日だ。

 彼は双子のうちの兄だ。成績もトップクラスで、一二を争うほどの学力を持っている。教授からも、『この成績だと、大学の奨学金を受けられるかもしれませんよ』とまで言わしめたほどだ。
 彼には何も非はない。努力も必要以上に行なっていた。
 ──だが知るがいい井の中に囚われた蛙。
 "その大学"では優れていたとしても、さらに優れているものが存在するのだ。
 弟は兄よりもはるか先を上回っていることを。
 弟は日本の一流大学に入学し、兄はその大学に落ちてしまったのだ。周囲の目は冷ややかな目で見られるのは自明の理だった。
 彼の耳に入るは、『兄貴のくせに弟に負けるのか』、『弟は出来が良くても兄貴は不出来だね』など、殆どが悪意に満ちた"比較"の罵詈雑言。自分が大学のトップクラスを狙っていたのは果たしてどうしてなのか。
 自分の夢を叶えるための教養を身につけた証拠にするためか、一流大学に通う弟をねじ伏せるためなのか、あるいは復讐か。
 彼自身もうわからなくなってしまっていた。
 帰れば理由なき勉学に励む毎日で、帰らねば自らの努力を否定することになる。
 つまるところ、どちらに転んでも彼は劣等感に苛まれる運命にあった。

 しかし、彼にも一つ胸を張って主張できることがあった。
 大学が全てではなく、そこで何を学んだのかが全てである。上には上があったとしても、下には下があるのだと。
 無為に大学生活を送っているわけではない自分に誇りを持っていた。それが果たして周囲の評価につながるかどうかと言われれば──。

 月は嘲笑する。学歴社会に溺れた彼を。劣等感の塊でしかない彼を。
 そんな月明かりの下、人通りのない道を彼はトボトボ歩く。
 疲労が身体に蓄積しているからか、足取りもままならない。周囲の人が見ればおそらく酔っ払いに見えなくもないだろう。
「お、そこの兄ちゃん」
 突如、声をかけられる。特徴的な嗄れた声。年齢からして初老の男性だろうか。ボロボロの服を着ており、無造作に長い髭を生やして、見た目が見窄らしい。
 彼は無視して、歩みを進めようとする。

 しかし、前に進むにつれて、左に頭が傾いたり、右に足が動く。シーソーの如く、右へ左へ、前へ後へ、常に世界が傾いている感覚。
「なあ、無視すんなって」
「何でしょうか」
 執拗に追いかけ回す男に苛立ちを覚えた彼は、冷たく突き放すように訊いた。
「兄ちゃん、人を殺したような顔して歩いてっからよ。俺が少し手助けしてやろうかって思ってな」
「──え?」
 理解できない。こんな見窄らしい自分に手助け?
 それよりも、気になったのは『手助け』以上に、『人を殺したような顔』だ。それほどまでに自分は絶望に満ちた顔をしていたのか。
 周りの人には明るく振る舞っているつもりではあるが、やはり勘のいい人であれば己が心に翳りがあることに気付く人もいるのではないか。
「結構です、それじゃあ」
 男を振り切って彼は家とは違う方向へ曲がった。
 しかし――。

「このままでいいのか。おまえ」
 男の一言で彼の足が止まる。
 今の状況でいいのか、と聞かれればそれは満足いくはずがない。
 同じ時間、同じ条件で生まれてきたというのに、弟と比較されてきた。どれだけ努力しても努力しても、絶対にその差は埋まることはない。所詮、自分は弟の引き立て役であったのだ。
 そう考えると悔しくて、悔しくてならない。自分にも自分らしく生きる権利があるのだ。それを生まれながらにして周囲の環境から剥奪されてしまった彼の心は、すっかり自分らしさを失った社会の傀儡になり果てた。
「――んだよ」
 彼から零れ落ちるように発せられた言葉。彼の声に耳を傾けようと、男はそっと近づいた。
「お前に僕の何がわかるんだ! 僕はみんなの期待に応えるために、一所懸命努力してきた! 何も僕に非はない、ないはずだ! 僕は圭介の引き立て役なんかじゃない。僕にも、僕にも確かな――」
 火山の如く溢れ出す弟への怨嗟の号哭。
 彼は爆発寸前だった感情を会ったことのない男へ爆発させてしまった。
「あ――」
 声が漏れる。怨嗟は一瞬にして、罪悪感に塗りつぶされていく。

 自分ガ悪イ、自分ガ悪イ、オマエガ悪イ、コノ出来損ナイ、役立タズ、オマエハ無価値、オマエガ悪イ、自分ガ悪イ、自分ガ悪イ、オマエガ悪イ、コノ出来損ナイ、役立タズ、オマエハ無価値、オマエガ悪イ――。

 頭を塗りつぶす自分を恨む怨嗟。ひどく頭痛がする。自らを自らで拒絶する反動で、吐き気もする。体の中の臓物がひっくり返るようだ。
 男は目の前で、不敵な笑みを浮かべて
「おまえは何も努力をしてない」
 と、断言した。
「え?」
「おまえの努力は、たかだか常識の範囲内だろ? 律儀に縛られているから、強者になんかなれないんだよ」
 男の言っている意味が分からない。常識の範囲内? 何を話しているんだこの男は。
「周りの環境に流されている時点で、おまえは努力していない。使いまわされてゴミ同然に、捨てられて終わるだけだ。このまま進むと、おまえはもっと圭介くんを引き立てるお飾りになる」
 努力すればするほど、自分の存在を誇張するほどに、自らの存在が影になる。これは、絶対にして不可逆の法則だった。
「いいか、本当の強者は何者にも支配されない。圭介くんは果たして、強者といえるかな?」
 残った理性で、発想を逆転させる。自分が影であるということは、自分が居なければ輝くことができない凡才なのだ。学歴がいいからと言って、周りからチヤホヤされて育った弟は絶望と挫折を知らない。それは強者とは呼べないのではないか。
「おまえは、どんな手段を使ってでも、今の状況を変えたいか?」
 どんな手段ででも? どんな手段を使ってでも、今の惨めな生活を変えたいとは思う。しかし、あらゆる手段を使っても誰も認めてはくれなかった。これ以上に何をすればいいのか。厭な予感がする。口の中から異常な量の唾液が分泌されているのを感じる。
 ――彼はの折った理性で最大限の思考をした後、過去の自分と訣別するように、その唾液をすべて飲み込み、首を前へ傾けた。
 男はボロボロのコートのポケットから、白い粉末が入った小さな袋を取り出した。

「これは、おまえが幸福に至る最後の手段だ。今の絶望的な状況を打破するカギになるかもしれないが、扱いを間違えると、この世の地獄を味わうことになるだろう」
「これは――?」
 男は袋を揺らす。月光にさらされて輝く白い粉末。
「おまえが本当に強者であれば、こんなものにも支配されない」
 男は白い粉末の入った袋を彼のジャケットのポケットに入れた。
「俺はいつでもこの路地にいるからよ。また欲しくなったら、この時間に来るといいさ。次は料金をもらうがな」
 そう言って、男は路地から立ち去っていた。

  ***

 部屋の中はムシだらけだった。
 なんとも形容しがたい吐き気のするほど気持ち悪いムシがあちこちで蠢動している。
 部屋の向こうにも部屋がある。向こうの部屋はガラスを隔てて見えるようになっている。向こうの部屋にもムシがいる。
 ガラスの前にいるのは――女だ。女の顔にも、ムシがついていて、顔を見るのもいやだ。
「恭一。どうして圭介を刺したの?」
 彼は何も答えない。
「私もお父さんも、恭一も圭介も自慢の息子だと思っているのに」
 ムシが消える。女はよく知っている人だった。
「圭介が憎かった。周りの人はみんな僕のことを欠陥品、出来損ないみたいに、ボクが頑張れば頑張るほど、僕は圭介の影になっていく。どう頑張ったって、エリートコースに乗っかった圭介には勝てないからね」
 彼は目を細めた。
「でも、どうせ自分なんか死んでも、消えても、誰も悲しまないだろうって。当時はそう思っていたし、今でもそう思ってる」
 そう、弟の引き立て役でしかない自分は、死んでも困るのは弟だけで、誰も困らないのだ。それほどまでに自分には価値がない。そう思い込むことで、自分のうちにある感情を殺していたのだ。だからこそ、憎い弟を殺せなかったし、家族の一人として、接することができた。
 女はきっと、彼を蔑んで罵声を飛ばすことだろう。出来損ないには価値はない。犯罪者の息子にハ価値ハナイ。オマエノ居場所ハナイ、ハヤク死ネ――。
 しかし。
「――わけ、ないじゃない……」
 女――母の掠れる声。日光で見えなかった母の顔が翳り、だんだんと母の表情が見えてくる。
「悲しまないわけないじゃない……。自慢の息子なのに」
 それは、母が流した初めての涙だった。
 過去、何があったとしても決して涙を流さなかった。いつも気丈に振舞っていた母が、今ここで初めて彼のために涙を流したのだ。
「あ――」
 愛されていた。すでに愛されていたのだ。欲しかったものはすでに手元にあったのだ。
「ああ――」
 自分の行いが愚かだったことに気づく。強者や弱者など、どうでもよかったのだ。
「圭介は、恭一のことを誇りに思っていたのよ? なんでそんなことに気づかないの?」
「ああ――ああぅあ、ひっ……ああ――あああああ!」
 決して赦されることのない後悔の号哭。愛されていたことも知らず、『悪魔』に魂を売った自分を恨む。
 未だかつて以上の苦しみが彼を襲う。

  ***

 季節が巡る。
 周りの人々の力もあって、少しずつ症状は緩和されつつあるが、まだ完全には落ちなおせていない。
 それでも、自分が間違えていたことには変わりはない。この事実から目を逸らしてはいけないのだ。自分は多くの人を傷つけた。ましてや実弟を手にかけた。この罪はどんな罪よりも深い。
「ああ――」
 なぜか清々しい気持ちになる。ここで罰を受けることが彼にとっての幸福なのか、あるいはそれが雲一つない快晴だからなのか――。

 ――そしてまた、季節が巡っていく。

  あとがき

 どうも、カガリです。
 こちらは、大学の学校祭のために、新しく書き下ろした小説です。流石に自分の名前を使うわけにはいかなかったので、違う名義を使いましたが……私のことは探さないでね? 特定したらダメだよ? 篝 永昌名義ではなく、別名義です。
 コピー本として販売したので、本としてのクオリティーは文庫本ほどではありませんでしたが、個人的にはものすごく小説っぽくて製本できた時はすごく嬉しかったですね。
 初版特典としてプロットも収録してました。それに加えて、後々執筆しようとしていた、自分の今までの人生を追憶を綴った作品、『Lost Fragments Episode 1 -Prototype-』のプロットもかるーーく載せました。そして、ネットに掲載していない小説も収録しました。タイトルは『モミの木』です。
 最後に自由詩型小説も収録しました。この話はそのうちしようかな……。

 さて本作、実はカガリの小説初のテーマが二転三転しております。最初は兄弟間の優劣から始まり、その解放手段として薬物乱用、そこから家族愛に突き抜けていきました。
 本当は死刑エンドや、釈放エンド、色々何個かエンディングは用意してあったし、もっとエピソードがあってもいいと思ったんですけど、この暗い世界観を維持したい上に、学校祭という明るい宴の雰囲気をぶっ壊すような内容だったのもあって、止むを得ず、ズバズバッとカットしまくりました。薬物乱用については、○○先生の第七シリーズのアレを参考にしています。もう少し薬物のリアルさを出したかったなあっていう反省点。
 家族の在り方も今の時代では多様化してきて、親とはなんだろうとまで言われている時代に来ています。今の時代の流れを読んだら、あと数年後くらいにしたら、こういう物語も「不謹慎だ!」とか「○待されている子どもの気持ちが分かってねえ!」、「薬物乱用の話を書くんじゃねえ!」とか色々炎上するんじゃないかなとか──考えつつ……もうなってるかもしれないですけど。
 センシティブなことが多くなってきている時代なので、色々気にしながら小説を執筆するのは正直しんどいものです。私の読者は、心の広い人が多いといいなぁ。と思いつつ、筆を置こうと思います。
 学校祭の執筆が終わったので、停滞していたお話の続きも書こうと思います。

 かがり

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