【中編小説】彩の旅 EP1 未来閉塞境界域 エルダー[前編]
Episode Ⅰ
未来閉塞境界域 エルダー
-The elder brings the wisdom-
Intro.
小鳥がさえずり、気だるい風が森を吹き抜けた。
シエロは少し早く起きて、いつ鉄の塊になってもおかしくない古くボロボロになった車に荷物を乗せ始めた。
「そろそろ出発するぞ、ヴァリ」
「んー……ん?」
なにせ、この場所は鬱蒼としている森の中だ。日光なんてあまり入ってこない。体内時計がすっかり狂ってしまっているようだ。
「……もう、朝なの?」
寝ぼけたヴァリがシエロに問うた。目があまり開かない彼女を見て、シエロはやはり無関心そうに口を開く。
「朝というよりかは、早朝かな。寝るなら車の中で寝ていてくれ」
ヴァリは背中を伸ばし、大きな欠伸をした。
「なーんでこーんなに早く起きなきゃいけないの?」
荷物を車にくくりつけながら、シエロは返した。
「何せ、今僕らはご飯を食べられるか食べられないかの危機に瀕しているからだ。車を走らせて少しでも次の街に近づきたい」
「その辺の草でも食べてればいいでしょー? 火を通して食べたらそこそこ食べれるよきっと」
ぐいっ、と紐を引っ張って車のフックに引っ掛けるシエロ。そして、後ろを振り返って瞳孔をヴァリに向けた。
「……この前、それを試して腹を下したのは君ではなかったかな」
「うぅ、それは……」
ヴァリは目を伏せてしまった。荷物を二回ほど軽く叩いて、落ちてこないように確認したシエロは車の前に回った。少し屈んで、車の下に開いた穴にクランク棒を差し込んで、思いっきりそれを回した。一度ではかからなかったので、何度か試す。
「そのことに反省しているのなら、次の街に少しでも近づくべきだッ……くそっ、オルタネーターが死んでるのか……」
何せ年季の入った車だ。昔、戦争で使っていた軍用車を安く譲ってもらったのだ。軍用車であるため、多少の劣悪な環境にも耐え得るような仕様になっているはずなのだが、もちろんそれは普段の整備がなされていればの話である。挙げ句の果てには窓ガラスは全て消え失せて風雨を凌ぐ術はない。
しかも、タンクに入っている軽油やバイオ燃料を使わなくても改造して取り付けた太陽光発電によって動くはずだが──ここはやはり鬱蒼とした森だ。陽の光は太陽光パネルに届くことがなく発電できずに、バッテリーは上がってしまったのだ。したがって、電気モーターによる駆動は望めない。ディーゼルエンジンの使用を余儀なくされた。五回ほどクランク棒を回してようやくエンジンはぺっぺぺっぺっと、まばらな呼吸をする。
「ごめんなさい、シエロ」
「……今日中にこの森を抜けたい。こんな危ない場所は二度と通りたくないからね」
***
彼女は"未来"という言葉が嫌いだった。
彼女の人生に"未来がない"から? 違う。
彼女の運命に"未来がない"から? そうだ。
人並みに愛されて、少なくとも人以上に期待されていた。生みの親を恨んだことはなければ、血筋を呪ったこともない。
しかし彼女の人生はどうしてか、迷宮のようだった。同じ場所をぐるぐると永遠に回っているような感覚である。
"私"は誰なのか、"私"が生まれた意味など、彼女は考えたこともなければ、考える意思すら持たなかった。
結果として、彼女の心には埋めようのない空洞が開いてしまった。何度も逃げようとしたが、罪悪感と虚無感に苛まれて逃れることもできずに再び虚無を埋める為に出口のない迷宮の攻略に勤しむ。
──あらかじめ、"用意された運命という軌条"に沿って走る彼女の人生に"自分らしさ"など不要だったのだから。
Ⅰ
しばらく進むと、何やら人が通った跡があった。
車輪が通ったからか、草が潰され、石が剥き出しになっている。それは森の向こうへと繋がっている。
「シエロ、この道ってどこまで続いてるのかな?」
「さあ。行ってみないとわからない。もしかしたら人が住んでいるのかもしれないね」
シエロはハンドルを切って道に沿うように車の方向を変える。
クラッチを離し、リバースギアから二速にギアを変えるとアクセルペダルを踏む。
「シエロ、ちょっと運転荒いよ? 怒ってるの?」
「すまない、森の中だからね。車の制御がうまくきかないんだ」
道なりに進んでいくと、ヴァリが反応した。
「シエロ、誰かいるよ?」
ヴァリが指差す方向には一人の少女が立ち尽くしていた。
「ヴァリ、近くに街があるかどうか聞いてきてくれるかな」
「わかった!」
シエロは少女より少し離れた場所に車を止めた。少女は未だシエロとヴァリの存在に気づいていない。それに、彼女は涙を流していたのか、目は腫れていた。不思議に思いつつ、ヴァリが車から降りて少女に訊いた。
「ねえ、どうして泣いてたの?」
ヴァリの問いでようやく人間の存在に気づいた少女。慌てて涙を拭った少女は、声を震わせながら笑顔になって口を開いた。
「なんでもないですよ! 久しぶりに森に入ったので、新鮮な空気につい感動してしまったんです」
「この森って、空気が綺麗だよね。呼吸して気持ちいいよ」
あはは、と愛想笑いを浮かべる少女。
「ところで、この辺りに人が住んでるところないかな? わたしたち実は旅をしてて、街に行きたいんだ」
少女は何故か目を伏せた。少し嫌なことがあるのか、暫し沈黙した後に車が向かってる方向に指を差した。
「この道なりを進むと人が住んでいる居住空間があります。きっとお二人を快く迎えてくれると思いますよ」
少女は作り笑顔を維持したまま、その場を去っていった。
──まるで、泡沫の夢を見ていたかのような気がした。どうしてこんな森の中央で少女と出会ったのかどうしても実感が湧かない。
不思議に感じつつも、車に戻ったヴァリは少女の指差した方向に居住空間があることをシエロに話した。
シエロは何も言わず、顔色ひとつ変えずにハンドルを切り、ギアを四速から五速に変える。風がぴゅー、と前から吹いてくる。
シエロはただ無表情に、ヴァリは鬱蒼とした森の向こうに何があるのかの期待を胸を膨らませて、光に飛び込む。
「シエロ……なにここ」
そこに広がっていたのは黄金の楽園だった。
絶句するヴァリとは裏腹にシエロは何も思っていなさそうような顔で周りの風景を見渡した。
ヴァリは目を見張った。目がおかしくなったのかと疑うくらい、飛び込んできた景色は綺麗だった。
一面の小麦畑が広がっていた。たわわに実った小麦の実は、黄色を通り越して黄金に変貌しており、一層綺麗に見える。そして何より、この村はあまりにも原始的だった。
「シエロ、わたしたち生きてるよね? ここ、天国じゃないよね?」
「生きているとも。ここは正真正銘、村のようだ」
ふと、周りを見渡すと、収穫作業をする人々がこちらを見ている。
「なに、あなたたちは?」
畑作業をしている女の一人が、呟いた。
「なんで、あんな怪物のようなモノに人が乗ってるの?」
「どうして知らない人がここにいるの?」
「なんなのあれ? 汚らしい」
一人がつぶやいた後、それに続くように畑仕事をしていた若者たちがざわめき始めた。
さもありなん。正式な手続きを以ってこの地域に入ったわけではない。先程の森の中で出会った少女の案内でここに来たのだから。
「ねえ、シエロ。どうするの? これすごくまずくない?」
シエロは何も言わなかった。無表情で前を見据えたまま、左手をハンドルから離そうともせず、ただただ沈黙してこの状況を注視している。
シエロは1速からR(リバース)にギアをチェンジした。いつでもこの状況を離脱できるようにアクセルペダルにも足を添えていた。
そこで、ヴァリとシエロの方に向かって走ってきた。30代半ばの若い男だ。彼は独特な模様の衣服を纏っていた。
「ねえ、どうするつもりなの? シエロ」
シエロはそれでも何も言わなかった。向かってくる男を無表情で黙って見つめていた。
やがて、男は車のそばにやってきた。手には石を欠いて作った槍を持っていた。男の表情は険しくない。おそらく彼は敵対心を持っていない。
「あの、どちら様で?」
「しがない旅の者です。森の中であなた方と同じような模様の入った少女からこの場所を案内されました」
男は槍の穂先を僅かに傾けた。
「何日かの滞在を許されたい。我々にはあなた方に危害を加える意思は一切ない。もしも許されないのであればこのままこの場を通過する」
シエロはきっぱりと男に言い放った。
「貴様、それは人にものを頼む態度か?」
槍の穂先はシエロに向かっていた。男はシエロを殺す気だ。このまま何もしなければ車とシエロが死んでしまう。
「シエロ、まずいって。謝ろう?」
シエロはヴァリを見た後、ハンドルに添えられた手をそっと離し、両手を上に挙げた。
「なんだそのポーズは」
「"降伏"だ。こうして手を上に挙げると、君たちに攻撃ができない。正真正銘、僕らは君たちを攻撃することはできなくなった……ということだ。どこかの国では"白旗を挙げる"とも言っていたね」
槍の穂先が光った。
「貴様らにはここを退去してもらおう。さもなくば殺す」
鬼のように眉間に皺を寄せて警戒する男。そこに、また一人の老人がやってきた。
「まあまあ、アンラ。そこまで怒らなくてもいいではないか」
「はっ、首長様」
老人は木を削ってできた杖をついて、ゆっくりと近づいてきた。彼も独特な紋様が入った装束を身に纏っていた。やがて立ち止まった老人はシエロの方を見て、ふむ。と舐め回すように観察した。
「彼らには敵意はないようだ。ようこそ、エルダー自治区へ。アンラ。迎えてあげなさい」
老人は優しい顔で頷き、踵を返した。
「ということだ。首長様の命令ならば仕方がない。旅の者。変なマネはしないように」
不機嫌そうな顔で、アンラはこの場を去っていった。
とはいえ結果的に首長が現れて、この村に滞在できるようにはなったというものの、今回のシエロの行動は不器用が故に、意図せず現地住民を煽ることになってしまった。
その一部始終を見ていたヴァリは頬を膨らませていた。
「……シエロもやりすぎだよ。反省してね」
「僕なりに敵意がないことを示したかっただけだ。僕は悪くない」
「だとしても、あれは煽りにしか見えないよ。シエロの言い方だったら『手を挙げて降参すりゃ泊めてもらえるんだろ?』みたいな言い方だったよ。わたしでも喧嘩を売ってるんじゃないかなって思うもん」
シエロはため息をついて、アクセルペダルを踏んだ。
ヴァリはシエロの真似をしたのが、ちょっと恥ずかしくて、もみあげから伸びる髪の毛をくねくねと触った。
Ⅱ
田園地帯を数分走ると、建物らしきものが見えてきた。
藁でできた家だ。一際大きい家や、中くらいの家、小さい家など、不規則に立ち並んでいた。どうやら、この村は中心部に集落があって、周りを囲むように畑があるようだ。走行中に気づいたことだが、必ずしも小麦だけを育てているというわけではなく、途中でとうもろこしや米を育てているのも見かけた。
案内された建物は中くらいの家だった。長方形の形をしており、人が七人ほど寝れるほどの広さを誇る。床の下には暖炉が埋められており、その周りを囲うようにクッションが置いてある。
「原始的な家だね。シエロ」
「この場所は多分冬になると寒いんだ。熱がこもるように藁でできている。夏は風通しがいいように窓を開けて換気をするんだよ」
「どうしてそんなことがわかったの?」
クッションに座っていたシエロは、足を崩して仰向けに寝そべった。
「昔、ロンドンの図書館でそういう資料を読んだことがある。遥か遠い東の国の北にアイヌ民族という民族がいたようでね。この家の特徴はアイヌ民族が作っていた家に非常によく似ている」
少し考えた後に、ヴァリはシエロに言った。
「ということは、ここはアイヌ民族の集落? あるいは並行世界で成り立っているの?」
いや、とシエロは首を横に振って否定した。
「確かに装束も似ているものを着ているけれども、ここはアイヌ民族の文化に似ているだけの世界だ。アイヌ民族の集落でもないし並行世界でもないだろうね」
それに、とシエロは付け足して、
「アイヌ民族が雑穀を食べていたという話は聞いたことがあるけど、米を栽培していたなんていう話は聞いたことがない。寒地稲作は南の国がアイヌの地に侵略してから成功しているからね。そもそもあの場所で稲作を成功させたのはアイヌ民族ではない」
資料の内容を、ロボットのように話すシエロ。大体どんなテーマの資料だったのだろう。彼の知識量は明らかに常人を超えている。
「とにかく、ここがアイヌ民族の集落に似てるって言いたいんだね? シエロは」
「そうだ……ん?」
外から足跡が聞こえた。足音の距離は、家のすぐ前まで来ている。
「誰ですかー?」
ヴァリは体を傾けて入り口を覗いた。
入り口の前に立っていたのは一人の少女だった。
「こんにちは。このエルダー自治区の案内人に任されました──」
一礼して顔をあげた少女は、どこかで見たことのある少女だった。
「──ミナムといいます」
それは、森の中で出会ったあの少女であった。
ヴァリとミナムと名乗った少女は、目を合わせるや否や、瞳孔を丸くしてお互い指を差し合った。
「あーー! あの時の女の子!」
「森の中で出会ったあの時の人……?」
「わたしヴァリ! フルネームはアマレヴァリス=イヴェット! よろしくね! ミナムちゃん!」
歳が近いのか、ヴァリはミナムと名乗った少女に満面の笑みで握手する。ミナムは、握手の概念を知らないのか、少し困惑気味に苦笑いを浮かべていた。
「それ、友愛の証なんですよ」
シエロが握手について説明すると、途端にミナムも満面の笑みを浮かべた。
「そうなんだね! よろしくね! ヴァリちゃん」
シエロはため息をついた。
「こっちにいるのがシエロなんだよ! で、シエロ、この子がここに案内してくれた子なんだよ!」
一通りの自己紹介を終わらせた後に、表情虚ろにシエロはミナムに対して口を開いた。
「……つまり君はここの住民で、僕たちをこの集落に案内したのも君なんだね」
「そうみたいですね。ヴァリちゃんを案内したのは私であるのは間違いないです」
ふむ、とうなずいた後。
「うちのヴァリがお世話になった。そしてここに導いてくれたことに対して礼を言う」
「シエロ、堅すぎ。もう少し柔らかく言えないの? "ありがとう"とかさ?」
「すまない。これが僕の限界だ。これでも最大限の感謝を伝えたつもりでいる」
二人のやりとりを見たミナムは静かに笑った。
「なんで笑ってるの? どこかおかしいところとかあった?」
「あの……お二人がいつもこんな感じなのかなって思うとすごく微笑ましく思ったんです」
申し訳なさそうに目を伏せるミナムに、ヴァリは大笑いした。
「そうそう、シエロは本当に不器用なんだからね。本当にそういうところだぞシエロォ!」
シエロの大きな背中を叩く。
顔色一つ変えずに、シエロはヴァリを見た。
「ええ、ええ!? そんなことしちゃって大丈夫なんですか!?」
慌てるミナムにヴァリは親指を立てて
「そんなことでシエロは怒らないから大丈夫だよ!」
ヴァリとミナム、少女二人に自由に扱われてもなお、男はため息を漏らしながら石像のように動かなかない。男の心はまさに鋼鉄であった──。
シエロの顔は疲労しきっているようだった。あの顔は痩せ我慢しているが、体のあちこちを摘まれてそこらじゅうに痛みが蓄積しているのも間違いはない。
「シエロ、なんか言ってよ」
「僕で笑うなら本望だよ」
「つまんないの」
ヴァリが頬を膨らませると、ミナムは何かを思い立ったのか、
「さて、自己紹介を終えたことですし、皆様に食事の準備をしてきますね!」
と、森の時の笑顔と同じ顔をしながら長方形の家を後にした。
二人の間にはしばしの沈黙が走った。
シエロはクッションを枕にして仰向けにして寝そべる。ヴァリは膝を抱えて囲炉裏を眺めている。
それでも沈黙は破られなかった。お互いが何を思っているのかは理解できないだろう。
「……ねえ、シエロ」
「なんだい」
「ミナムちゃん、何か辛いこととかあるんじゃないのかな?」
「それはどうして?」
「森で泣いてたときの作り笑顔と同じような顔してたよ」
シエロは少し思案したあと、ため息をついて口を開いた。
「僕には彼女を救う義理もなければ権利もない。あくまでも僕は旅人だからね」
「まーたそんなこと言う──」
Interlude
エルダー自治区の中心部には、首長の住まう屋敷が存在する。旅人たちが泊まる家から歩いて5分の位置にある。
夕食の準備と称して、旅人たちの家から飛び出した彼女は、その首長の屋敷にいる。
「ただいま、帰りました」
「おお、帰ってきたか、ミナム」
「はい、おじいさま」
先ほどの天国とは違い、楽しくも嬉しくもない世界。
「旅人たちはどんな反応だった?」
「とても、ゆっくりと寛いでおりました」
そうか、そうかと首長は高笑いした。
「ミナム。おまえはこのエルダー自治区の"未来"を担う後継者だからな。正しく在り続けて旅人たちにその鑑を見せつけてくるがよい」
「はい、承知しました」
──また、"未来"だ。
あるのかどうかすらわからない上に、不確実な概念。
彼女は"現在"を生きていない。"未来"に束縛されて生きているのだ。"過去"、自分が何をやっていたのか、自分らしさなんてどうでもいい。自分を人間として見てくれているのかどうかすらよくわかっていない。
彼女は未来に縛られた人形。
それなのに、あの旅人たちは心の底から自分らしく生きているように思えた。
シエロは何を考えているのかわからない。常に無表情であるから、ヴァリの一つ一つの行動が彼の癪に障っているのではないかと心配になる時がある。
ヴァリは言わずもがな、友人になれたような気がしていた。あの明るい性格はおそらくシエロに影響されて成り立っているのだろう。シエロが感情に疎い性格だから、ヴァリはそうならざるを得なかったのかもしれない。
しかし、彼女にとってあの二人が羨望の対象であるのは間違いない。
──本当のしあわせ、ってなんなんだろう。
今まで思いもしなかった疑問が、彼女の脳内を渦巻いていくのだった。
Ⅲ
夕方。夜の帳が降りている頃、シエロとヴァリは首長から食事に誘われた。村の中心に向かって歩いておよそ5分の位置に大きな屋敷のようなものがある。
「ごめんください」
と無機質で抑揚のない言い方でシエロが門番に話しかけると、
「首長様のお客様ですね。こちらにどうぞ」
廊下はない。入り口を潜ると、すぐに首長が座っていた。
「来たか、待っていたぞ、異邦人らよ」
一礼し、屋敷に入るシエロとヴァリ。
大きな足の短いテーブルの奥に座っていたのは、二人を出迎えた老人と槍を持っていた青年、アンラ、そしてミナムだった。他にも部屋の隅に約十人ずつ並んでいるが顔を上げようとしない。厳重な警備体制でこの食事会が行われるようだ。
二人が屋敷に入ったのを確認した老人は、
「申し遅れたが、わしはこのエルダー自治区を治める首長、クロウリーじゃ。左にいるのがワシの息子のアンラで、右にいるのがワシの孫娘であるミナムじゃ」
アンラとミナムはお辞儀した。どうぞおかけに、とクロウリーの案内で二人はテーブルの向こうに座った。
アンラは眉間に皺を寄せている。どうやらこの食事会が納得のいくものではないらしい。ミナムはシエロとヴァリの泊まっている小屋の雰囲気とはうって変わってかなり暗い表情をしている。
さあ、食べよう。というクロウリーの号令とともに、屋敷の中にいた人は一斉に食べ始めた。
「このエルダー自治区は、我々老人が、若者に叡智を分け与えて成り立っているのじゃ。つまり、若者は老人を敬わねばならぬのじゃ」
「つまり……アレだ。古き賢人が尊いとされる考え方なんだよ。ここは」
自慢げに語るクロウリーとアンラを横目に、ヴァリは食事を早く進めていた。
「すまないが、わしより食べ進めるのは控えていただけんかの。このエルダー自治区でのしきたりなのじゃ」
シエロとヴァリは、食べる手を止めて、木のスプーンをお椀にかけて置いた。
「ところで、お二人の様子は、ミナムから聞いている。どうやら満足に休めているようで……なによりじゃ」
「そう、そうなんだよ! さっきシエロと一緒に叩いたり、抱きついたり、ほっぺたを引っ張ったりして──」
ヴァリの言葉を聞いた瞬間に、屋敷の中が凍りついた空気が立ち込めた。
この異変に気づいたのは、無論ヴァリだけではない。シエロは目を見張っている。きっと、予想外のことだったのだろう。絶対にクロウリーから目を逸らすことなく、必死にこの危機を乗り越える方法を考えているのだろうか。
ヴァリの徐々に速くなる心拍。五感が全て、この状況が危険であることを感じている。
アンラのみならず、クロウリーもミナムを睨みつけていた。
「ミナム、それは本当なのか?」
アンラの問いに、ミナムは目を伏せた。
ミナムは一切口を開くことなく噤んでいる。それは当然だ。来客に暴力を振るうなど、無礼な行動を取るのはあまりにも失礼である。空気が張り詰めるのも当然だろう。
「──あなたのお嬢さんは、とても礼儀正しい淑女でした。こちらも一緒にいて楽しかったですよ。決して僕の連れが言ったような無礼な行為はしていませんよ」
シエロは無表情でアンラに言った。
「アンタ、どの口でその態度を取ってるんだ。うちの娘がアンタらに迷惑をかけたのは間違いないだろ?!」
アンラは大きくテーブルを叩き、皿が鳴った。クロウリーは目を閉じて話を聞いている。
「ちょっと、シエロ、わたし……わたし……」
罪悪感に怯んだヴァリはシエロの袖を掴んだ。
しかし、それでもシエロは焦りの色ひとつ見せずに無表情だ。視線をミナムに向けると、彼女は涙目になっていた。
「アンタ、この出来損ないに肩を持つってのか。俺の次の……"未来"の首長になるというのに!」
「やめんか。アンラ。このまま続ければ、お主も"教育対象"だぞ。仮にも次期首長だろう? お客様の前では控えなさい」
アンラの怒りの炎はクロウリーによって鎮火されたようで、怒り狂った顔は──すぐに穏やかな顔になった。
「そうだな。首長様に叡智を授かってるんだから、ここは冷静にならないといけなかったな」
クロウリーにそう言うと、前にいるミナムをギロリと睨みつけて、再び温厚な顔に戻った。
──それから、何事もなく食事会は終了した。
最初は空気が悪かったというものの、クロウリーの計らいで、今までの旅路やシエロの故郷の話、シエロが語った御伽噺など、語り聞かせてその場が和んだ。
ヴァリは罪悪感で終始、目を伏せており、ご飯を食べては時折シエロの腕に抱きつくを繰り返していた。
宿泊施設に帰宅したころには、すっかり夜になっていた。電気も何もないので、火を灯した。
それでも、やっぱり真っ暗だった。
鈴虫の声が聞こえる。残暑のない晩夏の夜だった。
「ねえ、シエロ」
「なんだい」
「もしかして、ミナムちゃんを助けてくれたの?」
「いや? 僕は事実を言ったまでだよ」
ヴァリは少し黙った。数秒の沈黙の後、ヴァリは重い口を開いた.
「やっぱり、ミナムちゃん。なんか、おかしいよ……」
シエロは何も言わない。
思えば、あの屋敷に入ってからずっと様子がおかしかった。終始目を伏せながら食事会に参加していたその様子は、まるで何かに怯えているかのような。そう形容せざるを得ないほど、彼女は何かに恐怖していたように思えた。
「ミナムちゃんは、一体何に怖がってるんだろう……」
Interlude Ⅱ
──痛い。
「この出来損ないがァ! お客様に気を遣わせるなんて何事だ!」
彼女のお腹、頭、背中、体のあちこちが痛みが迸る。祖父は、黙ってその光景を見ていた。
「……アンラ、腹の下はやるなよ。"後継"が産めなくなるからの」
「くそっ、了解した」
木の棒で何度も彼女を叩く。何度も何度も気が遠くなるが、痛みが彼女を現実に引き戻す。
「"未来"の首長になるのにテメェはよ!! 礼儀を弁えろってんだ! 教育が必要だ。ほら、足出せ」
痛い。痛い。痛い。
──だから、私は"未来"が嫌いなんだ。
誰か、ここから逃がして──
(To be continued...)
あとがき
※本編のネタバレを含むので読了後に読むことを推奨します。
未来というものは残酷なものです。過去と現在は、五感の情報を記憶というページでいつでも読み返すことができますが、未来だけは例外です。見えないが故に一秒先を人は恐怖し、見えないが故に一秒先に希望を持つのです。
こんにちは、お久しぶりです。カガリです。最近は大学も夏休みに入り、だんだんと落ち着いてまいりました。
さて、彩の旅 第一話は『未来閉塞境界域 エルダー』です。副題の意味は亀の甲より年の功ですね。前編終盤にて、クロウリーさんがエルダー自治区のことを「老人が、若者に叡智を分け与えて成り立っている」と言っていましたが、副題はこのエルダー自治区の本質を成す一文となっています。
実はこの話、一度投稿しているのですが、現在執筆している第二話が予想以上に内容が濃くなりまして、だいたい一万文字で終了していた第一話を序盤だけ残して全て書き直しました。話の主軸を変えず、ただ内容を濃くする作業でしたので、自分の元あった固定概念から話を膨らませるのはかなり難しい印象でした。もうすでにお読みになっている方はいるのかもしれませんが、私は前に執筆した第一話と展開を大幅に変えようと思っています。
さて、ここからは第一話より前に投稿された2つのプロローグの裏話になります。『Prologue Ⅰ』にて語られているお話はシエロの故郷の"ブリテン"の昔噺になっております。シエロの世界であるブリテンには確かに妖精は存在しています。英雄アレキサンダーと妖精エインセルの英雄譚は、ブリテンでは日本でいう桃太郎と同じくらい浸透しています。エインセルが子どもを産む日、世界変動でオーロラが起きたその後の世界をシエロ達は『世界の裏側へ通じる抜け穴』を探して旅をしているのです。アイヌ民族の話をしているのは、シエロの世界にはアイヌ民族が実在していたためです。エルダーという存在しない国家名が現れているのは紛れもなく謎の世界変動の影響です。
とはいっても、妖精が存在するあたり、シエロの故郷であるブリテンは我々の知っているブリテンでもないので、世界各地にある地名が全てあるかと言われれば、完全に一致するわけではありません。
現地住民のミナムと異邦人ヴァリ、シエロが織りなす後編をどうかお待ちくださいませ。
かがり
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