【短編小説】The Final Train

 ある日の深夜。
 終電逃した男が一人、無人駅の改札前のベンチに佇んでいた。彼はまた今日も残業だった。
 業績を上げねば休みさえもらえない、大変息苦しい企業で毎日彼は真面目に働いていた。
 つい数日前に、なんの音沙汰もなしに同僚が会社を辞めた。引き継ぎもせずに辞めてしまったので、男はなにもわからないまま仕事を丸投げされて、それを文句一つ言わずにこなしていたのだ。
 男の努力は、ただただ報われなかった。
 真面目で仕事ができる者ほど損をするこの社会において、男のような人を救うお人好しは会社の中では重宝されるが、彼一辺倒に依存していくのだ。会社が欲しいのは、この"男という黙って働ける道具"なのであって、この"男という一人の人間"ではない。人間性なんてはっきり言ってもうでも良いのだ。 
 では、この環境に不満を抱いていなかったかと言われれば──それは否である。
 彼は今年で十五歳になる娘と二人で暮らしていた。中学校を卒業するとはいえ、高校に進学させるのには多額の資金が必要だった。
 その資金を捻出するのにいくら残業したとしても、残業は全て徒労に終わってしまう。
 そして思春期を迎えた娘は、父親である男に強く当たり散らして、長らく疎遠になっている。
 教育相談に行くにも、娘の担任の先生からは
「ちゃんと見ない親が悪い」と罵倒され、完全に親としての意識を失いつつあった。
 それ以上に、娘は高校に入った後にアメリカ留学することを強く望んでおり、その費用を捻出するために精神と身体を擦り減らしていたのだった。

 ──現在は深夜十一時。月は今日も男に微笑みを投げかけている。
 帰宅することもできずに、途方に暮れる。
 終電を逃したので、ここから家に帰る方法を考えねばならない。
 駅からタクシーを使うとなると、多額の支払いが求められる。
 ……ここから歩く他、帰宅手段はなかった。
「……っ!」
 声が漏れた。
 ベンチから立とうとすると、肩や腰に激痛が迸った。おそらく疲労で悲鳴を上げているのだろう。
 ……これはしばらく動けそうにない。
 スーツの胸ポケットからタバコとライターを取り出してタバコを咥える。
 ふと、あたりを見渡すと『駅構内禁煙』の文字が見えてしまったので、タバコを吸うことすらできなかった。 
 親である男からしたら、少なくとも娘には感謝されたかった。母親が死んで、男手一人で一人娘をここまで育てたことを誇りに思いたかった。
 わかっている、わかってはいたのだ。
 娘が男に怒鳴り散らすのは、間違いなく孤独を埋めるためのものなのだと。
 母を亡くしてからの娘は地を天にひっくり返すほどに変わってしまった。自らの境遇に悲観し、父親であるこの男に当たるようになったのだ。
 ただ、それは男とて例外ではない。男だって人間なのだ。
 娘の罵声を含む怒号は男の全てを否定しているような気がした。

 ──ああ、嗤いたければ嗤うがいい月よ。
 こんなはずではなかった。
 オレの人生はどこかで踏み間違えた。人生の転轍機の進む方向を明らかに間違えてしまったのだ。やんぬる哉。
 娘に怒鳴り散らされる家に帰るのも億劫だ。
 一度くらい現実から逃げても、呪われはしないだろう。
 タバコの一本すら吸わせてくれないのか。
 誰か、この現実から逃してくれないか──

 ところで、影、駅構内に二つ。
 男以外の人間は存在しないはずである。
 隣のベンチに一人の少女がどかっと粗末に座ったのだ。
 十四〜五歳だろうか。見るからに容姿が幼い少女だった。
 だが、随分と粗末な制服の着こなし方だった。
 何があったのか、制服のワイシャツの第二ボタンまで解けて、裾はスカートから飛び出しており、頭はひっつめ頭のように荒れて果てていた。
 ベンチに座ったその少女は一度、大きなため息をついた。荒廃した容姿を整えだした。
 ……身体にアザはない。家で何かあったわけではないようだ。櫛で髪を整えたその少女は、清楚という他なかった。
 まじまじと見つめる男の存在に気付いたのか、少女は一言、
「なんですか?」
 とそっけない態度で冷たく言い放った。
 ──言い訳のしようがない。着替えをしているところを見てしまったのは間違いないのだから。
 押し黙るしかなかった。激しい罪悪感を彼を襲う。
「すみませんでした。服装を整えているところをつい……」
 眉間に皺を寄せていた少女の顔は急激に緩くなる。
「……そうですか。嘘偽りなく白状するのは人として素晴らしいと思います」
 と、その少女は携帯を取り出した。
「やはり、警察に?」
 覚悟を決めざるをえなかった。心拍数が上がっていくのがよくわかる。
「公共の場で身なりを整えていた私の責任です。おじさんには咎はないです。私はここで待っているんです」
 突如、駅構内に一陣の風が吹く。
 風にさらされた少女の髪は、夜の帳の中の電灯に照らされて黒く輝いていた。
 男は目を見張った。はっきり言って綺麗だ。小柄で清楚な少女だ。古に封じられた記憶が脳という机上にぶちまけられる。
 ──あれは確か、中学の頃の初恋の人に似ていた。
 自分も若かったものだと、振り返ると同時に男は問うた。
「待ってるって何してるの?」
 少女は沈黙した。
 瞬間、この沈黙を何を意味するのか、男には分かった気がした。いや、もしかしたら高校生のコスプレをした女子大生とかかもしれない。
 必死に邪な思考を振り切ろうとする。
「援助交際、してるんです」
「援助交際?」
 聞き慣れない単語に、男は重ねて問うた。
 少女は下唇を噛みしめて、声を震わせて──
「SNSで出会った、お金に裕福な男の人たちと一緒にいろんなことをして過ごして、お金をもらってるんです」
 ──俯きながら声を絞り出すようにして言った。
 胸が痛んだ。まだ大人ではない少女が顔も素性も知らない男と一緒に行動をしているなんて、そんな馬鹿げた話があるわけがない。
 これ以上、少女の素性を聞くのははっきり言って罪悪であると男は思った。
 だが、好奇心と少女への憐憫が男を疑問へと誘う。
「どうしてそんなことしてるの?」
「そうでもしないと、生きていけないからです」
 あまりにも単純でわかりづらい解答だった。
 男の脳天に槍が刺さったような気がした。同時に、心臓を鎖で締め付けられている。
 この少女の事情はどうなっているかは、男には知る由もない。
 事実、男はこの少女よりも裕福である自信はあったからだ。明らかに少女のことを卑下している。この憐憫が罪悪であると、周りが嗤うのであれば勝手に嗤えばいい。この少女を心の底から救ってやりたい、と思ってしまったのだ。
 男が推測するに、『男と時間を共にする』という行動は『淫行』も含まれているのだろう。先程の荒れ果てた彼女の容姿がそれを裏付ける証拠である。
 少女が現在、幸せではないことは今の少女の仕草からして明白だった。だが無責任にも男は『そんなことをするのはやめろ』という制止の言葉をなげかけるわけにもいかなかった。
 かと言いつつ、この少女を救うために金銭を差し出すのもあるべき男の対応として違うだろう。少女の事情を詳しく聞くのも違う。
 かくして、男は悟る。
 どう足掻いても、どのような手を差し伸べてもどうしようもないことがあるのだ。と。
 少女の告白による衝撃の後に男の虚な心に響いたのは、何もしてやれない悔しさだった。
 ここまで幸福を願ってやまない少女がいるのだ。自分の身体、心を差し出してまで幸福に至ろうとする少女の在り方は仕事や責務に追われていた男の虚な心を撃ち抜く。
 そして、憐憫の情を含んだ男の一言が二人の間の重い沈黙を破る。
「……じゃあ君は今、幸せなのかい?」
「──生きていることが、しあわせの源であるのならば、私は今、これまで以上にしあわせです」
 と、少女はこれまでにない笑顔で男に答えたのだ。
 そしてやけに高価そうな腕時計で現在時刻を確認した後、
「じゃあ、時間なんでそろそろ失礼しますね」
 と笑顔でこの駅の中を立ち去っていった。
 夜の帳が完全に降りたこの侘しい駅の中に一人、男は取り残されたのである。

 数年が経過した。
 あれから仕事の関係で何度も終電を逃して駅に佇んでいたが、一度もあの少女に再会することはなかった。再会を期待していなかったわけではない。
 少女と出会ったあの日以来、結果的に仕事の環境も、娘の粗暴な態度は変わることはなかった。
 ──だが、男の在り方は変わった。
 どのような形であれ、己が幸福のために生きる者は、世間にとって取るに足らないものでも、小さな光に見えた。
 自分のために生きることがどれだけ重要か彼女は十分にも満たないたった数分で教えてくれたに違いない。
 何も考えず、他人のために、迷惑をかけず、ただ自分の責務に生きていた男が見出した一つの解答であった。
 逼迫していた精神に余裕が見られ、自分の娘を留学にこじつけることができた。少女のおかげといえば、おかげなのかもしれない。
 あの時に出会ってなければ、こんな前向きな考え方になることもなかっただろう。

 ──そして今日もまた、終電を逃してしまった。

                  完

 あとがき

 どうも、篝 永昌です。今回の小説は今年の4月9日に脱稿した小説です。この小説のテーマは2つほど挙げたつもりです。みなさん気づいたでしょうか。
 1つ目は『幸福の在り方』です。あなたにとって幸福とはなんでしょうか。幸福の在り方は人によって様々です。たとえ、それが人道に外れていたとしても、普通の人が幸福に至らないようなものだとしても、必要最低限の幸福である『生きること』に対して手段を問わないことは果たして幸福なのか、ということを表現してみました。
 2つ目は『憐憫の罪悪さ』です。憐憫とは自分の環境の方が恵まれていると思っているから生まれる感情であり、無責任にもその感情を押し付けることは他人の幸福を妨げることにつながってしまうのです。たとえそれが人道に外れた幸福だとしても。です。
 みなさんが男の立場だったら、どう思いますかね?

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