落花
花の周りを蝶が飛ぶ。
その緩く儚い様はまるで水のようにしなやかで、花のように麗しく、道行く人を魅了する。
私もそうなれたなら、どれ程幸せだっただろう。
花のような笑顔、水のように透き通った声、天真爛漫、その全てが私のものであったなら、どれ程救われたことだろう。
緑を踏み締めた。靴がさしゅっと重い音を奏でた後、その音符は空に放り出され空気と同化した。私はそれを何度も繰り返し、森の中を歩いていく。昨夜雨が降ったばかりであるからか、緑は私の靴を湿らせ、独特の不快感が足から湧き上がってきた。それでも私は足取りをやめなかった。森の中を進み続けた。
東の空が白み始めた。早朝の空はどうしてこんなにも心を揺さぶるのだろう。カクテルのように混ざり合う橙色と青色。それは絵の具で描いた絵画のように一面に広げられ、私の頭上を覆っていた。そのカクテルの下を包む深緑。世界にはこんなにも多くの 色があったのか。仄暗い私を残して、こんなにも世界には色が溢れていた。
深緑の中を黒い私は進み続ける。きっと私は、生まれた時からここに導かれる運命にあったのだ。運命論者でもないくせに、進んでいるうちにそんな御伽噺を妄想してしまう。横たわる木を跨ぎ、落ちている岩石を避け、所々に咲く花を傷つけないよう、私は歩みを進めた。
数十分が経った頃だろうか、深緑の床の上に一輪の茜色の花が落ちていた。右も左も分からなくなるような、ただ絵の具で緑に塗っただけのようなこの床にぽつりと落ちた花。先ゆく誰かの落し物のように置かれたそれは、私の心に一抹の光を点した。空と、森と、この花と、こんなにも色で満ちているのに、私は黒いまま。早朝とは言え木々で覆われて光も禄に差さないこの森で、懸命に赤赤と存在感を放つそれに、初めて私の足は止められた。
見ただけでこの花の名前はすぐに分かった。そしてその隠された皮肉に、思わず苦笑を零してしまった。
私をこの森へ、この先へ誘った原因の人達は、今も何も知らずに眠っているのだろうか。夜が明け、日が始まるのを静かに待っているのだろうか。人の悪意で、敵意で、害意で塗れて黒く濁った私でも、この花のような色を放つことは出来たのだろうか。それが可能だったとしたら、どこで、どの人に出会った段階で修正すれば良かったのだろうか。
花に憧れた。比喩でもなく単純に。あるだけで世界を彩り、各々の色を持って咲き誇るそれに、私もなりたかった。蝶が己の周りを飛び回る世界で、私も生きたかった。
でも今やそれは泡沫の夢だ。齢十八にして分かる。濁った私には、もう茜色を取り戻すことは出来ない。黒く夜に溶けるか、深緑を纏って森に解けるか。どちらにせよ私に、咲き誇る未来などもう残っていない。
花に背を向け再び歩み始めた。深緑ばかりで脳が不具合を起こしそうな中、私の前にようやく白い光が現れ始めた。深緑はそこで途切れ、白い光を目指して私は歩みを進めていた。森を抜けたのだ。
森を抜けた先は小さな下町だった。カクテルの空の色を纏った寂れた街。所々にある飲食店にはシャッターが閉められ、閉店間際であろう居酒屋の看板の光だけが道標のように煌々と輝いていた。足に湿気による不快感を残したまま、私は構わず歩みを進めた。アスファルトの上を踏みしめ、歩いていく。乱雑に止められた自転車。パズルをするかのように積み上げられたビールケース。店に寄り添うように置かれた観葉植物。どこか安心させるようで余所者を疎外するような街を、私はただひたすらに進んでいく。
数分進んだところで大きな道路へ出た。早朝ということもあって人通りも、車も少ない。だがこれがここで暮らす人の移動手段に大きく役立っていることは一目瞭然だった。
歩き疲れて少しふらついた足をなんとか持ち上げ、歩道橋の階段を上がった。考え事をしながら歩いてきたせいか気づかなかったが、かなり私の足は限界を迎えていた。私も、もう限界だった。
上り切ったところで欄干から道路を見下ろした。やはり車や人は少なく、それどころか一つも存在していなかった。まるで私一人がこの世界に取り残されてしまったかのような錯覚に打ちひしがれ、徐に天を仰いだ。変わらず広がる青と橙。所々にアクセントのように配置された不透明な白い雲。ここに人達には今から今日一日が始まる。その始まりを鮮やかに彩るようなこの空が、私は好きだった。
欄干に足をかける。黒く濁った私でも、世界に溶け込めなかった私でも、この空に溶けることが出来たなら、きっとそれは私にとって唯一の幸せだ。
不意に太腿に振動が伝わった。すぐにそれがポケットに入れていたスマートフォンからのものであると理解した。おもむろに取り出し、電源を入れた。
『起きた。位置情報見たけど、椿今どこにいるの?』
メッセージの送り主には幼馴染の名前が表示されていた。ああそういえばこの子は、私を横から照らしてくれる花であったなと回顧する。
それでも私は、花にはなれないから。
ふらつく体を正し、なんとか欄干の上に立ち上がる。ようやく青と橙に近づいたようで、気分が少し躍った。
不意に森の中に落ちていた花を思い出した。綺麗な椿だった。