白と赤
「君はそこで何をしているの?」
降る雪の止まない薄明の時間、大通りを少し逸れた薄暗い小道に1人の少女がいた。
「今日は終わったから帰るの」
その少女は道端に広げていた小さな絨毯ほどのレースの布を綺麗に折って畳み、置いていた金属製の小さな丸い箱をゆっくりとリュックに入れた。持ち上げた段階でゲームセンターのコインのようにジャラジャラと姦しい音を立て、中に硬貨のようなものが入っていることは見ずとも明白だった。
だがそれ以上に僕の目を引くものがあった。彼女の左腕、左手首からは鮮血がつーっと伝っており、その数滴がぽたりぽたりとレースの布に赤く丸い模様を作っていた。
「君、怪我をしてるじゃないか。血が出ている。絆創膏程度なら持っているから今すぐ手当を」
人の血を見るような緊急と思われる状況下でも、不思議と心は冷静だった。父の職業柄、血や怪我を見慣れているかもしれない。僕は脳に書かれた常套句を読み上げるように心配すると、彼女の赤を纏った白く細い腕に触れようとした。その刹那。
「要らない」
シャッターを締め切るように勢いよく彼女はそう言い、僕に背を向けた。
「こんなの放っておけば治る。これは私のやるべきことで、生きている意味なの。放っておいて」
彼女は無愛想にそう吐き捨てると、先程までまとめていた布や箱をそそくさとリュックに詰め込み、小道の先へ消えていった。止む気配もなく左から右から打ち付けるように降る雪が歩いていく小さな彼女の後ろ姿を覆い隠し、攫っていった。
僕は背を向けて離れていく彼女を見つめるしかなかった。
「また来たの」
「悪いね、ここは僕の朝の散歩コースに近くて」
「別に。あなたなんかどうでもいい。邪魔だけしないと約束してくれるなら好きにすれば」
「ああ、そうさせてもらうよ」
先日と同じように彼女はレースの布を畳み、今日も今日とてジャラジャラと音を立てる箱をリュックにしまっていた。
「今日もまた随分と血を流しているね」
彼女の腕には先日と同じように鮮血が伝い、またもやぽたぽたと下に雫を落としていた。繁く降り積もる純白の雪とその鮮血とが混ざり、彼女の儚さをより引き立てているように感じられた。その儚さは、今にも雪に拐かされ、消えてしまいそうで。
「別に。何度もしてるけど大丈夫なんだから、これくらい平気」
強がるように言う彼女を繋ぎ止めたいと思ってしまう自分が微かにいる。この触れたら消えてしまいそうな程に薄くてか弱い手弱女に魅せられ、惹かれている僕が。
彼女のことを知りたいと思った。だから思わず聞いてしまった。
「君はどうしてこんなことをしているの?」
聞いてはいけないことを聞いてしまったのか、まるで時が止まったかのような時間が流れた。降る雪さえもが映画のスローモーションのように見える。世界の全てが静止したような静寂を打ち破ったのは彼女。
「…ある人を探しているの」
「人?」
「忘れられない人がいる。彼はきっと私のことを『 こういう人』って覚えてるから。見つけてもらうにはこうするしかない」
聞こえるか聞こえないかくらいの小声でそう空気に放つ彼女は今まで見たことにない程に目が据わり濁っていて、思わず尻込みしてしまった。そこには彼女の変わらぬ一心、最早強迫観念に近いような信念が詰め込まれているような気がした。彼女の魂がそこに宿り鮮血に塗れる腕も雪のように白く整った顔も、全てが作り物で抜け殻のようにさえ思えてしまう。
「…僕の父は警察官なんだ、人一人くらいなら探偵事務所にも掛け合って探し出せると思う」
「それじゃ意味がない」
そう空に吐き捨てると、彼女はリュックを持って立ち上がった。
「私は私のやり方で彼を見つける。そうじゃないと意味がないから」
少し振り返ってそう言い、歩いていく彼女と僕の間には確かに隔たりがあった。物理的な距離感ではない。彼女の目は僕を見ていても確実にその先にある全く違うものを見つめていた。断固としてそれ以外の何者をもその瞳に宿さないような迫力と違和感がそこには漂っていて、彼女の世界に僕など存在していなかったことが否が応でも理解するしかなかった。
ここ数日降り続けていた雪は確実にその勢いを増していき、その日は吹雪に近いような天候だった。一寸先も眩んで見えづらくなるような猛威だったが、それでも僕はいつものあの場所へ歩みを進めていた。それも、いつもより数十分早く。涅色のダッフルコートと手袋を身にまとい、半透明のビニール傘を差してまるで彼女に導かれているかのようにそこに足を踏み出して言った。僕が踏みしめた雪についた足跡で道が出来、その一歩一歩が、彼女への興味と違和感と欲を表現するに足るものだった。
「…〜…〜〜〜」
ふと、微かな歌声が耳に届いた。まるで人魚のように美しく透き通っていて、それでいて雪にかき消されないように芯の通った、力強く凛とした声だった。飴玉のように溶けて広がるその声に魅了されるように、僕は歩みのスピードを早めた。
「〜〜〜」
いつもの場所に辿り着いた。そこには空に向かって歌声を放つ、彼女の姿があった。聞こえていた通りの鈴のように鳴り響いてそれでいて甘く広がる声を響かせながら、手を伸ばし、舞い、胸に手を当て、歌い上げていた。それだけでも充分僕は矢で射抜かれたように彼女から目を離すことが出来なかったが、より目を奪ったのは彼女が時折とる行動だった。歌声を放ちながら彼女は右手に持つカッターナイフで左腕に切れ込みを入れていたのだ。すかさず切れ込みの隙間から赤い液体がたらりと顔を出す。
僕はそこで即座に理解した。彼女の鮮血に塗れた左腕、それを気にも留めない態度、止めないでくれと突き放す発言、その全てがまるで点と点が結ばれるかのようにすっと頭に入ってきた。
ふと彼女の足元を見るといつも見ていたあの金属の箱に僅かながら硬貨が入っていた。きっと僕と同じようその歌声に魅了され、見に来た人間が投資したものなのだろう。
だが、彼女にとってこんなものは、塵芥と何ら変わらない。彼女がこんな行動をとっている理由、彼女がこうしている理由、全ては「ある人」の為であり、彼女はそれ以外見ていないのだ。僕らが彼女を見ていても、彼女は僕らを見ない。彼女の黒い瞳に宿しているのは、過去から「ある人」ただ一人なのだ。
僕は彼女の過去を何も知らない。彼女のことも、つい数週間前に知っただけだ。なのに彼女の全てを僕は見たような気がした。それと同時に、この行為でしか「ある人」の記憶に残っていない彼女に対して、言葉にし難い虚しさを感じた。赤は白によく映え、その声は遠方まで届く。加えてその行為。彼女はその身潰えるまで「ある人」に捧げるのだろう。
彼女を解放したいと思わなくもなかったが、それ以上に僕はそこに美しさを見出していた。昏い水の底のように濁って混ざり合い、それでいて透けているような瞳に、「ある人」を宿すその瞳に、僕は「そのままでいて欲しい」と思う他なかった。
身を賭けた探し物に、僕は硬貨を入れなかった。彼女が望むものはただ一つだけなのだ。