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私の理解する世界

ある日、こんな夢を見た。

水色の絵の具を天高く絞り出したかのように青く済んだ蒼穹。綿菓子のように浮かぶ雲々。堅牢なコンクリート造りの校舎のある一室で、パンを片手に、着席している男が一人。その周りには派手派手しく服装を乱した女が数名。チョークの文字が消えかかっている黒板、秩序を無くした椅子に目も昏れることなく、いつものように過ごしている、昼休みの時間。
私は手元で練り消しを練りながら、半ば意識を飛ばしつつ男達の姿をぼうっと眺めていた。
「…ねえ、だからね、私の愛情全部あげるよ?」
乱れた机と椅子の渦中での喧騒もノイズキャンセリングされ、私にはその言葉が目の前からはっきりと聞こえてきた。
その言葉の主は真紅を纏った爪を光らせながら男へ手を伸ばし、先の男の手を取った。
「ね?  私と付き合お?」
飴玉を舐めるかのようにねっとりとした嬌声に思わず嘔吐きそうになりながらも、依然、私は練り消しを練る手を止めずにぼうっとその姿を眺めていた。ああ、窓から飛行機雲が見える、明日は雨かな、などを考えている程だった。
「おい---。お前の彼氏が言われてるぞ、いいのか?」
囃し立てるように左から発せられた野次に、私はようやく練り消しを練り続ける手をぴたりと止めた。その言葉を大脳辺縁系で処理すると同時に、曇ってぼうっとしてた意識が目の前の窓の向こうに広がる蒼穹のように突然晴れ、誰かに突き動かされるように椅子から立ち上がった。
だが蒼穹に浮かぶ雲のように思考を誤魔化す障害がある訳でもなく、どこまでもすっきりと晴れ渡って頭は真っ白の状態だった。何かを脳内で考えている訳でもないのに、まるで事前にプログラミングされているかのように自分の行動は断続することも無く続けられていく。この身体は本当に私のものなのかと考える暇もそこには無かった。
着席している男の膝の上にそのままゆっくりと腰掛け、男の首元に手を伸ばして抱きついた。体は先程自分が座っていた席を向いているものの、顔はしっかりと真紅ネイル女の方を見据え、私は言の葉を放った。
「でもごめんね、諦めて。この人、私のだから」
そう言って私は肩に回していた手に力を込め、男の頬へ一つ、キスをした。私にはこの女が、これ以上私達の世界へ踏み込んでこられないことを悟っていた。
世の中の人間が、自分の伴侶が他の異性に迫られている瞬間を目撃してしまった時に感じるであろう不安感や嫉妬もそこにはなく、代わりに存在していたのは男と自分との間の完全な信頼感と絶対的愛情、相手が自分のモノであることへの純然たる自信だった。まるでこの世界から私達二人だけを切り抜いたかのように、今この瞬間にATフィールドを形成したかのように、この言動には一寸の迷いも不安も存在していなかった。脳が指令を出して放った言葉を、何の検閲にかけることもなくそのまま口から吐き出したかのようなその言葉は、私達の自信に溢れた関係を表すのにあまりにも最適だった。

そこで視界が眩み、目の前が真っ暗になった。場面が急に切り替わるのは、夢の中ならよくあることだ。光の差し込む教室を離れた私は、薄暗い廊下を歩いていた。
先程とは打って変わって、何の光も届かない水底のような薄暗さとこの世から音が消えてしまったかのような静寂は、今が下校時刻をすっかり過ぎた夜中であることを私に悟らせた。栄えた街を一箇所に凝縮したように昼間は喧騒に溢れているというのに、この薄暗さの中には一つの音符さえも見当たらない。静寂がこの世を取り締まり、挙句の果てにはキーンという耳鳴りさえも感じられた。
数秒程歩くと目の前を一人の男が歩いていた。それは私の彼氏である男だった。私に背を向けゆっくりと歩き続ける男の元へ、私は何を考えるでもなく、本能的に駆け寄った。
「ねえ---。ここって」
そこにいたのは私の彼氏である男だった。駆け寄る前にも感じたこの認識に、何の間違えもない。だが刹那理解した。いや、その時は理解した気になっていただけかもしれない。そこに充満していた体に猛毒が回るような強烈な違和感。脳内で遥か昔から理解し、記憶しているものとは違う何か。これを果たして理解していると言えるのだろうか。真っ白であった頭の中に一滴の黒い絵の具が投じられて波紋が拡がるかのように、私の身体をある違和感が何層にも包み込み、私は言葉を止めざるを得なかった。
言葉を止めた私を見つめて、彼は私にある言葉を放った。一言一句聞き漏らすことも無く、その言葉は耳殼から入って私の鼓膜を震わせ、神経を通って脳内へ送り届けられた。
その言葉を理解した気になって、私の口は開き、返す言葉が漏れた。
「君は言わないでしょ、そんなこと」

私は図書室にいた。
そこからわたしの記憶は復活していた。
先程とさほど時間帯は変わらないのか、ここにも静寂の帳は降り、暗闇がこの図書室を取り締まっていた。教室にいた頃のように頭が真っ白になっていて、頭で何かを考えているわけでもなく、ただ誰かに操られているかのようにゆっくりと本棚に沿って私は歩みを進めた。そうして数秒歩みを進めた後に、私は一冊の本を手に取った。辺りを取り巻く暗闇のせいで何を取ったのかも分からない。だがそれでも、腕に繋がれた糸が空上へ引っ張り上げられたかのように私の腕は上がり、その本へ手を伸ばしていた。触った感じはそこまで分厚くない。紙に文字の刷られた本と言うよりも、1枚1枚フィルムの挟まれた、アルバムの形態に近かった。適当に選んだ何ページ目かを手に取り、ゆっくりと開いた。

私の夢は、そこで終わった。

カーテンの隙間から覗く雨戸からは、空上から地面へと一心不乱に投げつけられているかのように、雫が辺り一体を占領する様が見て取れた。環境BGMとして調べれば1番上に表示されるような有り触れた雨音を耳に流しながら、私は座っていたソファからゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、右肩にもたれかかっていた『何か』が私の座っていた場所へ倒れた。ずるっという衣擦れの音を奏でた後に、ぼすっという音を立てて座面へとその身を倒してしまった。
私はその姿を実像として網膜に写せど、それが虚像であるとして自分の脳へ理解を促した。何故なら私の記憶に、その状態の『何か』の姿はなかったからだ。私の記憶にはもっと別の、天真爛漫な明るい雰囲気を纏って記憶していた。だからこんなにも、首から左肩に掛けて赤絵の具を垂らしたコレの姿を私は知らない。知らないものを理解しろと言われても仕方がない。
ソファの前に置かれたローテーブルには一つの小さいキャンバスとアルバム、そして刃先に赤絵の具の垂らされた彫刻刀が乱雑に置かれていた。辺り一体に赤絵の具は拡がり、キャンバスやアルバムにも飛び散って赤い葉を散りばめたようだった。
それから数時間、私は理解することを諦め、手遊びをしながらぼうっとその有様を眺めていた。理解出来ないものを理解しろと言われても仕方がない。私は『何か』を練るように手遊びを繰り返しながら、ぼうっとその場へ佇んだ。
「…ーーー…」
不意に私の耳へ微かに言葉が届いた。私はその言葉をきちんと理解し、言葉を返した。
「君は言わないでしょ、そんなこと」

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