歌いながらもセレンディピティ【2020年3月15日】
私はその体質と門出の問題で、カラオケに行くことができない。
しかしよく風呂とかで歌ってる。
【導入】鼻歌に断罪は必要ない
さて、鼻歌を歌うのは気持ちが良い。しかし他者がルウルウ歌っているのを聞くのはどうにも腹立たしい。
理由は単に声が気に入らないとか、音程が違うとか色々あるが、なにより、
「歌詞が間違っている」ことが大きい。
歌というのは「歌詞」×「メロディ」でできている。単純に考えて歌詞の間違いというのは50%の価値を減少させていることに他ならない。全くアホである。
けれどもここではその「歌詞を間違える」ことを肯定的に考えてみたい。
【本文】君の原体験
よいか、歌詞の間違えは恥ずかしくない。
「教室は間違えるためにある」なんて言葉を聞いたことがあるが、その通り。音楽教室ならより詳細に、「歌詞を」を付け加えたい。
説明していく。
小学校のころ、授業で詩を詠ったことはないだろうか。私はあれが難しくて、およそ掴むところのない凡作を作り上げた記憶がある。
詩というのは、①リズム②メッセージの2つで作られる。
これらをそろえて完成させるのは大変だ。多大な頭脳労働を強いられる
さて、話題を戻す。ここで「歌詞の間違え」の見方を変えると、なんとこれ詩を作ってることにならないだろうか。
本人が歌えてるのだから、リズム感(文字数)はぴったりだろうし、メッセージ性もまあ元の歌詞がカバーしてくれるやろ。
歌詞の間違えと言うのはある意味神からの送りものかもしれない。ギフテッドってやつだな!
【終点】君のセレンディピティ
失敗や間違えからの発見は歴史上多くなされてきたし、それは世界を大きく変えてきた。
世界と言うのは視点を変えるだけでなんともまあ、都合の良いものになるものだ。
試しに押しても罰は当たらないはずです。知りませんけど。